川崎真弘さんの1周忌によせて…

 

 2006年5月4日。おだやかで爽やかな五月晴れの日の午後2時20分、パート先の私の元に1通のメールが届きました。送り主は、ヴァイオリニストの篠崎正嗣さん。メールのタイトルが「今…」と、いつものメールの感じと何ら変わりがなかったので、私は何の疑いもなく
「また何か面白いダジャレを思いついたのかな…それとも、お孫さんの写真か動画かな?」
と心を躍らせながらメールを開いてみました。すると、そこには
「川崎さんが亡くなったという連絡があったが…?」
という、信じられないような文字が並んでました。

 もちろん、私は親しい人の死に直面するのはこれが初めてではありません。今まで何人もの大事な人を見送ってきましたが、今回のような感覚…つまり、ありきたりな表現ではありますが、頭の後ろを強く殴られたような、全身が硬直して一歩も動けなくなるような感覚は初めてでした。
  その後、全身の震えを必死で抑えながら篠崎さんに「何で? 何で〜!?」とだけ返信。そしたら、すぐに「詳しくは分からん…。癌だったらしい…。去年の12月くらいに分かったらしいが…?」との返事が来て、それからはもう自分が勤務中であることなんか忘れてしまうくらいに動揺してしまって、詳しくは覚えていません。
  ただ、そんな中でも「とにかく、おっちゃんにも知らせんと…!」なんて思って携帯を握ったままオロオロしてたら、ちょうど仕事を終えたばかりのおっちゃんからも「いまエマリちゃんに聞いたんやけど、ラッキーさんが亡くなったって!」という電話がありました。

 このあと、何が何だか分からないまま仕事を終え、どこをどう走ってきたのか分からないまま帰宅し、何人かの作曲家さんや演奏家と連絡を取り合ってたんですが、そんな悪夢のような日からもう1年が経ってしまったんですね…。
  今でも、あの日のことや、川崎さんとの楽しくて実りあるやりとりを思うと自然と涙がこぼれてくるので、この追悼レポートも「とにかく49日の法要までに…○月までに…こうなったら1日でも早く…」なんて思っているうちに、とうとう1周忌を迎えることとなってしまいました。


 私と川崎さんとの出会いのキッカケとなったのは、川崎さんが手がけられた金曜時代劇「慶次郎縁側日記」の録音レポートでした。

 本来なら、レポをアップする前に作曲家さんや関係者の皆さんにご連絡して内容の確認をお願いすべきなんですが、当時の私はまだそこまで気が回ってなくて、川崎さんにも「実はこのようなものを作らせていただいてまして…ご連絡が遅くなって本当に申し訳ありません」というようなメールを出させていただきました。そんな失礼なメールにも関わらず、川崎さんからのお返事は「実は前から拝見しておりました。取り上げてくださって、とても嬉しく思っています。これからもよろしくね♪」という、とても優しいものでした。

 それからというもの、川崎さんのお仕事に関するレポートがあるときはもちろん、そうでないときも何度もメールの相手をしていただいて、本業である音楽のこと、ご趣味である釣りのこと、奥さんのこと、娘さんのこと…色んな話をして和ませてくださってました。


 そんな色んなやりとりの中で川崎さんがいつも声を大にして話してくれてたのが、今の音楽業界(劇伴業界)の在り方について…でした。
  私には詳しいことは分からないんですが、バブルのころに比べると、随分と音楽に関する予算が削られてるとか…。そうすると、どうしても生楽器を減らし、シンセで打ち込んだ曲が多くなってくるのは仕方のないことなのですが、その中でも自分のカラーをしっかりと出した「こだわり」を持つことが大事なんだということを、ほんとに一生懸命に語ってくださいました。
  また、それと同時に、そうした「こだわり」の気持ちをなくしてしまったら、いつか著作権フリーのシンセの曲だけで映画やドラマが作られてしまう世の中になっちゃうよ…と、とても淋しそうにも語ってくださいました。

 そして川崎さんは、基本的には生楽器の音をこよなく愛しつつ、打ち込みに関しては「打ち込みだからこそ出来る奏法や音域」というのもとても大事にされてました。
  たとえば、弓の返しのない弦や生楽器を使ったのでは出来ない(やりにくい)アルペジオやトリル、生楽器では絶対に出せない高音や低音…ですね。このあたりを上手に使い分けて、いつもそれぞれのいいところが最大限に引き出せるように…ということを考えてるような方でした。
  で、そうした気持ちをご自分だけでなく、次の世代の人にも受け継いでもらいたい…とのことで、機会があれば若手の作曲家さんや制作の方に、川崎さんが「これぞ!」と思う音を聴いてもらって、自分なりのこだわりを持って音楽を作り上げていくことの楽しさや充実感というのを伝えようとしてる方でもありました。


 これは「イエロー」という、1970年代半ばに活躍していた(1973年に結成・1976年2月22日に解散)ロックバンド時代の川崎さん。

 このころ私はまだ保育園か幼稚園時代なので詳しくは分からないんですが、私より少し上の年代の方たちの間では「70年代の日本のロック・シーンにおける、伝説のキーボード・ラッキー川崎」として、大絶賛されてたそうですよ♪

 このころのステージでの体験やファンの皆さんとの温かい交流が、作曲家さんとしての熱いハートを持った川崎さんにつながっていってるんですね(^.^)b


 あ、そんな熱い川崎さんならではのエピソードを1つご紹介しましょう。
 まず、皆さんがご存知の「おっちゃんの仕事場探検レポート」を作るときに、私は連絡の取れる限りの作曲家さんや演奏家さんに「何か、この日の録音について、レポに載せてもいいようなエピソードはありませんか?」という質問メールを出させていただいてます。それに対して音楽関係の皆さんは、お忙しい合間を縫って本当に優しく丁寧に対応してくださり、私はいつも「私なんかのためにこんなにまで…」と、感謝と幸せを噛み締めている日々なのです。

 そんな中で、あるとき川崎さんから音響設備に関する愚痴のようなメールが届いたんです。で、それが、いつも何かと笑いを交えながら語ってくれる川崎さんにしてはかなり辛口だったので「これ、このまま載せても、川崎さんのお立場は大丈夫ですか…?」とこわごわ聞いてみると「うん、いい! 俺が全責任を負うから載せて! やっぱり、ちゃんと気づいてほしいから…ね?」とのお返事がきました。
  そのメールには更に「こうやって‘いい音楽を作るために、皆で立ち上がろう!’みたいな感じで拳を振り上げても、なかなか若い人たちはついてきてくれなくてねえ。ふと気がついて周りを見れば、立ってるのは俺1人って感じで、淋しく思うことも多いんだよ。何ていうか、若い人たちの多くは、すぐに現状で満足しちゃうっていうか、限られた予算や環境の中でそこそこやってればいいかって思っちゃうみたい…。で、オジさんとしては、この振り上げた拳をどうしようかな〜って思っちゃうんだけど、やっぱり誰かが言わなきゃね♪」とも書かれてました。

 ご自分を取りまく環境や条件の中で穏やかに作曲活動を続けられていくのも、限られた環境や条件の中で一生懸命にご自分のカラーを出されるのも、ご自分を盾にして押し寄せる時代の波を掻き分けていくのも、どれもそれぞれに意味のあることだと思います。
  ただ、川崎さんが心配されてた「いつか、シンセで作った著作権フリーの曲ばっかりで番組が成り立つ世の中になるかも?」というのが本当なら、いま音楽制作に携わってる方々には、今まで以上に「やっぱり○○さんの音楽でないと!」とか「この音楽、このシーンにほんとによく合ってるね!」「○○(←楽器)って、こんなにいい音なんだね〜!」ってことを視聴者に感じさせるような音楽作りをしていってほしいなあと思います。
  …って、な〜んにも分かってない私が偉そうに書いちゃって、ほんとにゴメンなさい。でも、どうしても川崎さんの気持ちを無駄にしたくなくて…(>_<)


 右は「川崎さんにとってのおっちゃん」という、おっちゃんへのコメントページに使われたもので、私のお気に入りの1枚でもあります。この写真がキッカケで、川崎さんにも「ヒラメのおっちゃん」っていう新しいニックネームがついたんでしたよね。で、左下のは、川崎さんが「こんなのもあるよ♪」と送ってくださったものですが、どちらにしても見事なヒラメと鯛ですよね〜!

 このように、川崎さんは音楽家としてはもちろん、釣りの世界でもかなりの腕前を発揮されてたそうですよ〜。ちなみに、これらの魚をさばく板前としての腕も一流で、ご本人も「俺は前世は絶対に板前だったと思うんだなあ」とおっしゃるほどでした。

 いつか、川崎さんが釣ってさばいてくださったお魚をいただくのを、ほんとに楽しみにしてたのに…(T_T)


 ところで、私は一度おっちゃんと一緒に川崎さんの仕事場にお邪魔してるのですが、そのときからずっと「次は是非、一緒に飲もうね♪」なんて話になっていて、2005年の秋くらいからは「じゃあ、いつごろ上京しようか…?」という具体的な話まで出てきてました。
  そんな折に川崎さんが手がけられたドラマ「河井継之助」の録音(312番参照)があったんですが、その録音の直後に交わしたメールでは「1月あたりなんてどう? 春ごろまで待ってくれると新居に泊まってもらえるんだけど、早い方がいいもんね♪」なんていう、私の上京をとても心待ちにしてくださってるようなことが書かれてたんです。

 それが、そのわずか1週間後、録音レポのことでメールさせていただいた際に飲み会の具体的な日程も合わせて決めようとすると、急に「ちょっと自分ではスケジュールを管理できない状況になってしまって、1月もどうなるか…」という曖昧な感じのお返事になってしまったんです。
  でも、私は何の疑いもなく「新しいドラマの録音を海外でするのか、そのドラマのロケに同行したりするのかも?」と思って「じゃあ、また追い追い煮詰めていきましょうね♪」ということで、その場を終えることにしました。

 あとで伺ったお話によると、この「河井継之助」の録音のときに、川崎さんは「背筋が痛い」を連発されてたそうです。で、そのときにインペク屋さんや周りのスタッフの方々に「病院に行ってみなよ〜!」と勧められて病院に行ったら、何と末期の肝臓ガン。余命は1ヶ月…背筋の痛みは、ガンが背骨に転移してることから来てる痛みだったんだそうです。
  今でもこのお話を聞くと全身がこわばってしまう私ですが、それにしても、こんなドラマのようなお話がほんとにあるんですね…。あの「河井継之助」の録音のときの写真を見てすぐに「あれ? 川崎さんって、こんなにスリムだったっけ?」とは思ったのですが、それがまさかガンのせいだったなんて…。

 とにかく、そんな大変な事態になってるとは思いもしなかった私は、のんきに「まだ、お忙しいですか?」ってメールを何度も出して、そのたびに今まででは考えられないくらい何週間も間が空きながらも「まだ、ちょっと落ち着かなくて…でも、借金で逃げ回ってるわけじゃないから安心してね♪」「なかなかメールを開く時間がなくてゴメンね〜。実は全国と転々としてて…でも、やっぱり逃げ回ってるわけじゃないからね♪」なんていう川崎さんのお返事を見て「あ、いつもの面白い川崎さんだ〜!」「でも、どれも短いメールで忙しそうだなあ…ま、仕方ないか(^^ゞ」ってな感じで、のほほんと構えてました。

 そうしてるうちに、田中公平さんのコンサートがあることを知り、これは上京せねば…と思った私は「とりあえず4月に上京しようと思うんですが、ほんの少しでもお会いできますか?」とのメールを出しました。でも、それにはお返事がないままでした。
  その上京した日の夜の飲み会でも「ほんとなら、ここに川崎さんもいてくれるはずだったんだけど、連絡が取れないままで…どうしてるか知ってますか?」「川崎さん、このところサッパリ音沙汰ないなあ…どうしてるんだろうねえ」なんて会話があったくらいなんですよ。
  で、それから約2週間後の5月4日に、冒頭に書いた篠崎さんからの連絡が…ということになったわけですね。結局、私にとっては3月のはじめにいただいた「新居は完成したけど、まだまだ落ち着かなくて…でも、いずれクリアになるよ」というメールが、川崎さんと交わした最後のメールになってしまいました。
  川崎さんの「いずれクリアになるよ」ってメールの意味が、こういうことだったなんて…今でも、思い出すたびに胸の奥がキリキリと痛みます(>_<)


 これは、2006年5月9日の午後6時すぎ…そう、ちょうど川崎さんのお通夜が始まったころに、いきなり現れた虹です。この写真ではよく分からないかと思いますが、実はこの虹の外側にもう1本うっすらと虹があって、2重の橋になってたんですよ。

 私は、30数年も生きてきて、こんなに綺麗な虹を見たのは初めてでした。
  また、もしかすると、川崎さんが天に昇る準備をしてたのかもしれないなあ…なんて思った瞬間でもありました。


 そんな深い悲しみの日々からのこの1年、私は本当にたくさんの方に支えていただき、はげましていただきました。
  ある方は「川崎さんの訃報は作曲家協会からのFAXで知りましたが、どういう方だったのかは‘はたらく おっちゃん’で知りました。これも、ゆみさんのおかげですね。元気を出して!」と、またある方は「勇気をもって故人を想い、勇気をもって悲しみを受け入れるということが、残された者にとっていちばん大事なのではないかと思うので、早く元気になってね!」と…。
  そのほかにも、たくさんの方から私を気遣ってくださるメールをいただきました。この場を借りて、お礼を申し上げます。本当にありがとうございましたm(__)m

 結局、川崎さんには正式アップしたものを見ていただけないままになってしまったんですが、川崎さんとエンジニアの亀川さんにご協力いただいて作った「5.1ch」のページは、色んな方から「とても分かりやすい」と大好評なんです。そのページにも川崎さんらしさがあふれてますので、機会があったら読んでみてくださいね♪


 こちらは、川崎さん直筆のサインと似顔絵です。

 川崎さんからいただくお手紙や年賀状には、必ずと言っていいほど、このイラストがつけられてました。けっこう上手に、ご自身の特徴を捉えられてますよね?

 ほんとに、ほんとにもう、この世にはいらっしゃらないんでしょうか…。
  ときどき、川崎さんとお仕事をされてたエンジニアさんや演奏家さんから「今でもふと、川崎さんが生きてるような気がしてね」なんてメールをいただくんですが、私も同じ気持ちです。


 あとで奥さまの天翔陽子さんに伺ったお話によると、川崎さんは病気と闘いながらも、ずっとうちのレポートを読んでくださってたそうです。それを聞いたときに、それを思い出すたびに、まだご病気が判明する前の川崎さんからのメールに書かれてあった
「ゆみ殿のHPのBBSや‘おっちゃんの仕事場探検’シリーズは、我々プロと一般の方々との大切な橋渡しを担っていると思う。どちらの立場にも旬の新鮮さがあり、今まで興味があっても行き来する手段を持ち合わせなかった両者が、楽しくお互いの立場を交換し合える場所だと思う。その真ん中にいるゆみ殿の難しい立場も苦労も、ワシはよ〜く分かっておるよ。それは皆もちゃんと分かってるはず。だから、これからも真っ直ぐに、ゆみ殿らしい楽しいレポート作りを頑張ってね。ワシも頑張るぞ〜!」
という言葉の1つ1つが胸に突き刺さります。病床からうちのレポートを読んでくださってたときの川崎さんの心中を思うと、また涙があふれそうになります。

 2006年に入って川崎さんからのメールが途絶えがちになったとき、私の方としては「もしかして、しつこく飲み会に誘うから嫌われちゃったかな…?」「あんまりメールすると、ご迷惑かな?」なんて感じで、だんだんとメールをしないようになってたんです。ほんとはずっと川崎さんのことが気にかかっていたし、色々とお伺いしたいこともあったのに…。
 で、オンエアやロードショーが迫っている作品の原稿が手元にたくさんあったから…という理由の他にそうした理由もあって、先にお話した「5.1ch」のページの編集はつい延ばし延ばしになってしまって、結果的には川崎さんに正式アップを見ていただけないままになってしまいました。それが、ほんとにほんとに悔やまれてなりません。
 でも、きっと天国から見てくださっただろうと信じて、川崎さんの「大切な橋渡しを担ってる」という言葉を胸に、これからも頑張っていきたいなあと思っています。

 川崎さんと私とは2年半ほどのお付き合いでしかありませんでしたが、その間に音楽を愛する者として、人間として、とても大事なことをたくさん学ばせていただきました。
  そうした川崎さんとの豊かな交流の中で得たことを、少しでも多く皆さんにお伝えできれば…と思ってたら、何だかまとまりのない追悼レポになってしまいました。でも、これでもまだ、伝えたいことの半分も書けてないって感じです。こんな追悼レポですが、川崎さんの大きくて温かなお人柄を一緒に感じて、そして一緒に偲んでいただければ嬉しいです。

 最後になりましたが、心より川崎さんのご冥福をお祈りしたいと思います。

 

2007年5月4日

 

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