川崎真弘さんの1周忌によせて…
2006年5月4日。おだやかで爽やかな五月晴れの日の午後2時20分、パート先の私の元に1通のメールが届きました。送り主は、ヴァイオリニストの篠崎正嗣さん。メールのタイトルが「今…」と、いつものメールの感じと何ら変わりがなかったので、私は何の疑いもなく もちろん、私は親しい人の死に直面するのはこれが初めてではありません。今まで何人もの大事な人を見送ってきましたが、今回のような感覚…つまり、ありきたりな表現ではありますが、頭の後ろを強く殴られたような、全身が硬直して一歩も動けなくなるような感覚は初めてでした。 このあと、何が何だか分からないまま仕事を終え、どこをどう走ってきたのか分からないまま帰宅し、何人かの作曲家さんや演奏家と連絡を取り合ってたんですが、そんな悪夢のような日からもう1年が経ってしまったんですね…。 |
私と川崎さんとの出会いのキッカケとなったのは、川崎さんが手がけられた金曜時代劇「慶次郎縁側日記」の録音レポートでした。 本来なら、レポをアップする前に作曲家さんや関係者の皆さんにご連絡して内容の確認をお願いすべきなんですが、当時の私はまだそこまで気が回ってなくて、川崎さんにも「実はこのようなものを作らせていただいてまして…ご連絡が遅くなって本当に申し訳ありません」というようなメールを出させていただきました。そんな失礼なメールにも関わらず、川崎さんからのお返事は「実は前から拝見しておりました。取り上げてくださって、とても嬉しく思っています。これからもよろしくね♪」という、とても優しいものでした。 それからというもの、川崎さんのお仕事に関するレポートがあるときはもちろん、そうでないときも何度もメールの相手をしていただいて、本業である音楽のこと、ご趣味である釣りのこと、奥さんのこと、娘さんのこと…色んな話をして和ませてくださってました。 |
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そんな色んなやりとりの中で川崎さんがいつも声を大にして話してくれてたのが、今の音楽業界(劇伴業界)の在り方について…でした。 そして川崎さんは、基本的には生楽器の音をこよなく愛しつつ、打ち込みに関しては「打ち込みだからこそ出来る奏法や音域」というのもとても大事にされてました。 |
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これは「イエロー」という、1970年代半ばに活躍していた(1973年に結成・1976年2月22日に解散)ロックバンド時代の川崎さん。 このころ私はまだ保育園か幼稚園時代なので詳しくは分からないんですが、私より少し上の年代の方たちの間では「70年代の日本のロック・シーンにおける、伝説のキーボード・ラッキー川崎」として、大絶賛されてたそうですよ♪ このころのステージでの体験やファンの皆さんとの温かい交流が、作曲家さんとしての熱いハートを持った川崎さんにつながっていってるんですね(^.^)b |
あ、そんな熱い川崎さんならではのエピソードを1つご紹介しましょう。 そんな中で、あるとき川崎さんから音響設備に関する愚痴のようなメールが届いたんです。で、それが、いつも何かと笑いを交えながら語ってくれる川崎さんにしてはかなり辛口だったので「これ、このまま載せても、川崎さんのお立場は大丈夫ですか…?」とこわごわ聞いてみると「うん、いい! 俺が全責任を負うから載せて! やっぱり、ちゃんと気づいてほしいから…ね?」とのお返事がきました。 ご自分を取りまく環境や条件の中で穏やかに作曲活動を続けられていくのも、限られた環境や条件の中で一生懸命にご自分のカラーを出されるのも、ご自分を盾にして押し寄せる時代の波を掻き分けていくのも、どれもそれぞれに意味のあることだと思います。 |
右は「川崎さんにとってのおっちゃん」という、おっちゃんへのコメントページに使われたもので、私のお気に入りの1枚でもあります。この写真がキッカケで、川崎さんにも「ヒラメのおっちゃん」っていう新しいニックネームがついたんでしたよね。で、左下のは、川崎さんが「こんなのもあるよ♪」と送ってくださったものですが、どちらにしても見事なヒラメと鯛ですよね〜!
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ところで、私は一度おっちゃんと一緒に川崎さんの仕事場にお邪魔してるのですが、そのときからずっと「次は是非、一緒に飲もうね♪」なんて話になっていて、2005年の秋くらいからは「じゃあ、いつごろ上京しようか…?」という具体的な話まで出てきてました。 それが、そのわずか1週間後、録音レポのことでメールさせていただいた際に飲み会の具体的な日程も合わせて決めようとすると、急に「ちょっと自分ではスケジュールを管理できない状況になってしまって、1月もどうなるか…」という曖昧な感じのお返事になってしまったんです。 あとで伺ったお話によると、この「河井継之助」の録音のときに、川崎さんは「背筋が痛い」を連発されてたそうです。で、そのときにインペク屋さんや周りのスタッフの方々に「病院に行ってみなよ〜!」と勧められて病院に行ったら、何と末期の肝臓ガン。余命は1ヶ月…背筋の痛みは、ガンが背骨に転移してることから来てる痛みだったんだそうです。 とにかく、そんな大変な事態になってるとは思いもしなかった私は、のんきに「まだ、お忙しいですか?」ってメールを何度も出して、そのたびに今まででは考えられないくらい何週間も間が空きながらも「まだ、ちょっと落ち着かなくて…でも、借金で逃げ回ってるわけじゃないから安心してね♪」「なかなかメールを開く時間がなくてゴメンね〜。実は全国と転々としてて…でも、やっぱり逃げ回ってるわけじゃないからね♪」なんていう川崎さんのお返事を見て「あ、いつもの面白い川崎さんだ〜!」「でも、どれも短いメールで忙しそうだなあ…ま、仕方ないか(^^ゞ」ってな感じで、のほほんと構えてました。 そうしてるうちに、田中公平さんのコンサートがあることを知り、これは上京せねば…と思った私は「とりあえず4月に上京しようと思うんですが、ほんの少しでもお会いできますか?」とのメールを出しました。でも、それにはお返事がないままでした。 |
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これは、2006年5月9日の午後6時すぎ…そう、ちょうど川崎さんのお通夜が始まったころに、いきなり現れた虹です。この写真ではよく分からないかと思いますが、実はこの虹の外側にもう1本うっすらと虹があって、2重の橋になってたんですよ。 私は、30数年も生きてきて、こんなに綺麗な虹を見たのは初めてでした。 |
そんな深い悲しみの日々からのこの1年、私は本当にたくさんの方に支えていただき、はげましていただきました。 ある方は「川崎さんの訃報は作曲家協会からのFAXで知りましたが、どういう方だったのかは‘はたらく おっちゃん’で知りました。これも、ゆみさんのおかげですね。元気を出して!」と、またある方は「勇気をもって故人を想い、勇気をもって悲しみを受け入れるということが、残された者にとっていちばん大事なのではないかと思うので、早く元気になってね!」と…。 そのほかにも、たくさんの方から私を気遣ってくださるメールをいただきました。この場を借りて、お礼を申し上げます。本当にありがとうございましたm(__)m 結局、川崎さんには正式アップしたものを見ていただけないままになってしまったんですが、川崎さんとエンジニアの亀川さんにご協力いただいて作った「5.1ch」のページは、色んな方から「とても分かりやすい」と大好評なんです。そのページにも川崎さんらしさがあふれてますので、機会があったら読んでみてくださいね♪ |
こちらは、川崎さん直筆のサインと似顔絵です。 川崎さんからいただくお手紙や年賀状には、必ずと言っていいほど、このイラストがつけられてました。けっこう上手に、ご自身の特徴を捉えられてますよね? ほんとに、ほんとにもう、この世にはいらっしゃらないんでしょうか…。 |
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あとで奥さまの天翔陽子さんに伺ったお話によると、川崎さんは病気と闘いながらも、ずっとうちのレポートを読んでくださってたそうです。それを聞いたときに、それを思い出すたびに、まだご病気が判明する前の川崎さんからのメールに書かれてあった 川崎さんと私とは2年半ほどのお付き合いでしかありませんでしたが、その間に音楽を愛する者として、人間として、とても大事なことをたくさん学ばせていただきました。 最後になりましたが、心より川崎さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
2007年5月4日 |