宮川泰さん、永遠に…(宮川泰さん告別式レポート)

 

2006年3月25日。この日、この4日前の3月21日に亡くなられた宮川泰さんの告別式のために、港区青山にある青山葬儀所(青山斎場)へ行きました。おっちゃんがこの斎場を訪れるのは、おっちゃんの師匠である林りり子さんのお葬式以来だそうです。そうすると、もう30年以上も前のお話ということになりますね。その、お葬式の日だったか、亡くなられた日だったか、とにかく、りり子さんのときは季節はずれの雷雨…それも物凄い雷雨で、門下生の皆さんは「死してなお、りり子さんは恐ろしい」と口々に言い合ったとか…。でも、この日は明るくひょうきんな宮川さんが永遠の旅立ちを楽しんでるかのように、あたたかな春の光がいっぱい降りそそいでいたそうです。

おっちゃんは、宮川さんとは個人的なおつきあいはなかったそうですが、何といってもあの「宇宙戦艦ヤマト」の初期の頃からお仕事をさせていただいてましたし、その後もNHKのテレビ番組をはじめ、色んなお仕事で何度も呼んでくださってたので、この訃報を聞いたときには「何が何でも、お別れにいかなくては!」と思ったそうです。で、少しでもゆっくりとお別れができそうなお通夜の方にお伺いする予定にしてたそうですが、関係者の方から「告別式の出棺のときにブラスバンドの演奏をするので、それに参加してほしい」との連絡があって、急きょ予定を変更したそうです。


こちらは、宮川さんが眠られている祭壇の様子です。お通夜の方に列席された篠崎正嗣さんが撮って送ってくださいました。

こうした映像はワイドショーなどでも何度も拝見しましたが、宮川さんはほんとにいいお顔をされてましたよね(*^-^*)

会場の通路には、さまざまなテレビ番組に出演された時のお写真や、宮川さんならではの派手な衣装などが展示されていて、皆さん感慨深げに見入ってらしたそうです。


さて、宮川さんのご葬儀は、まず日本作曲家協会の会長である遠藤実さんの弔辞から始まったそうです。次に、宮川さんの親友であり、よきライバルでもあった服部克久さん前田憲男さん、そして羽田健太郎さんが、それぞれ遺影に向かって語りかけられたそうです。それが、一般的にありがちな、お仕事上のお付き合いから来たお義理的な挨拶ではなく、お互いに音楽を深く愛して、競い合って、励ましあってきた仲間だからこそ言えるような心からの語りかけで、聞いてる周りの皆さんも一緒になって、胸を熱くしたそうです。

中でも、前田憲男さんの「私はまだあと30年くらいはこちらの世界で生きるつもりですが、その後そちらの世界に行ったらすぐにまた仕事ができるように、ちゃんとセッティングしておいて下さいね」という、前田さんらしいユーモアを交えたお見送りの言葉が、おっちゃんの胸を打ち、会場の皆さんの心に強く響いたそうです。前田さんは、原稿なんか持たずに、遺影に向かって一生懸命にお話されてたそうですよ。そうした姿が、余計に皆さんの目頭を熱くさせたのかもしれません。

そのあとは、参列者の皆さんによる献花、ご親族や来賓の方々の最後のお別れ…と続いたそうですが、このあたりは一般的なお葬式の流れと同じようですね。ただ、参列者の人数が尋常ではなかったので、ご葬儀のスケジュールとしては、かなり押し気味だったそうです。おっちゃんが会場で聞いたお話によると、前日のお通夜の方はもっとたくさんの方がいらしてて、それはそれは大変だったとか…。でも、こういうところからも、宮川さんがいかにたくさんの方に愛されてきた方かというのが、よく分かりますよね。
 
こうしたお別れの儀式の中、会場ではずっと宮川さんの手がけられてきた数多くの作品が流されていたそうです。たとえば「ザ・ピーナッツ」をはじめとする歌謡曲や各テレビ番組のテーマ、そして忘れてはならない「宇宙戦艦ヤマト」の曲など、ほんとにたくさんの曲が流れていたそうです。これを聴いてたおっちゃんは「えっ…今まで無意識に聴いとったけど、これも宮川さんの作品だったんか…!」なんて感じで、あらためて宮川さんの作曲家さんとしての引き出しの多さに気づかされたんだそうですよ。

さて、いよいよご出棺です。まず、数原晋さんたち3名のトランペット奏者による「真っ赤なスカーフ(宇宙戦艦ヤマトのEDテーマ)」の先導で、お友達やご親族に担がれた柩が出てきたそうです。このシーンは私もテレビのワイドショーで拝見しましたが、何か細長〜いトランペットを吹かれてましたっけ…。ぐっとテンポを落として、しかも3人だけで吹いてるシンプルな「真っ赤なスカーフ」が、何だか私はとても物寂しく感じました。そうそう、テレビでは分かりませんでしたが、このときの演奏が霊柩車の数メートル手前でピッタリと終わったそうで、おっちゃんはとても不思議だったそうです。あとで聞いた話によると、息子さんの彬良さんが距離や歩数をしっかりと計算して、曲の長さを決められてたんだそうです。これには、おっちゃんも私も「さすが、作曲家さん!」と感心するばかりでした。


こうして無事に宮川さんの出発の準備が整ったところで、おっちゃんたちの出番となりました。

彬良さんがこの日のために編曲したという「宇宙戦艦ヤマト」のテーマが力強く鳴り響く中、参列者の大きな拍手に送られて、宮川さんを乗せた車は会場を後にしたそうです。

霊柩車が拍手で送られる…というのも、いつも明るく楽しい宮川さんならではという感じですよね(^-^)


ところで、この「宇宙戦艦ヤマト」は1974年に初めてテレビで放送されて以来、ご存知の通り大ヒットとなり、次々と続編が製作されました。宮川さんの元へも「次は敵の戦艦のテーマを…」「次は彗星のテーマを…」といった感じでオーダーが入り、そのたびに「え…また新しい敵が出るの? 何…今度は彗星? も…もうダメだ…ダメ、できないよ!」なんて悩まれたそうですが、実に9年間にも渡って「ヤマト」のために曲を作り続けられました。もちろん、その間にも「ズームイン朝」のテーマ曲など、お馴染みの名曲を数多く作られているのですから、ただもう驚くばかりです。

また、横断歩道の信号待ちをしてるときにズボンのベルトを緩めておいて、信号が変わって歩き出すと、ちょうど横断歩道の真ん中でズボンがずり落ちてパンツだけになるように…なんてお茶目なイタズラもたくさんされて来た方だそうです。 宮川さんの才能は作曲だけに留まらず、テレビでもたびたび笑いを取っていたように、コメディアンとしても一流で、一説には「クレイジーキャッツ」に入ることを熱望してらしたそうですよ。こうした宮川さんのエピソードを聞けば聞くほど、改めて宮川さんの才能を実感しますよね。

そうして、無事にお見送りの演奏を終えたおっちゃんも「規模は大きいんやけど、シンプルで心のこもった、ええお葬式やった…」と胸いっぱいで帰路についたそうです。

これからも宮川さんの残した数多くの名曲は、私たちの心に深く熱く残ることでしょう。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


最後に、作編曲家の青木望さんからお写真をいただきましたので、ご紹介させていただきます。


こちらは、宮川泰さんと青木望さんのお写真ですが、劇伴ファンからは「ヤマトと999の2ショットだ!」なんて声が聞こえてきそうなほど、貴重な2ショットですよね。

青木さんが公の席で宮川さんにお会いしたのは、このときが最後なんだそうです。青木さんの手にワイングラスがあるところを見ると、何かのパーティでしょうか…。

お2人の間にある穏やかな空気や緩やかに流れる時間が見えるようで、ほんとに素敵な2ショットです(*^-^*)


このあと、青木さんは本屋さんにお買い物にいらしてる宮川さんご夫妻をお見かけしたそうですが、そのときはお声をかけなかったんですって。でも、そのすぐあとに宮川さんの訃報が届いたそうで、ものすごいショックと同時に、本屋さんでお声をかけずじまいになってしまったことを、とてもとても悔やんでらっしゃいました。

そんな青木さんからは、宮川さんについて以下のようなコメントもいただきました。

「宮川さんという人は、アレンジャーの中では昔からスターで、私などには雲の上の存在でした。そして、今や文字通り、雲の上の存在になってしまいました。私は、彼の書いた作品が大好きです。要するに、宮川泰のファンなんですね。改めて、ご冥福を!」

いつも周りの人を気遣い、皆が楽しい気持ちになれるように…と、ムードメーカーでありつづけられた宮川さん。いま、こっちの世界で頑張ってらっしゃるたくさんの作曲家さんや演奏家さんたちが楽しく伸び伸びとお仕事に専念できるよう、そうして生まれた音楽が人々の心の架け橋となって世の中にあたたかい光が差すよう、ずっとず〜っと見守っていてほしいですね(*^-^*)



平成19年3月21日

 

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