〜読売テレビ・チーフプロデューサー 諏訪道彦さんに聞く〜

(前編)

 

 

2013年の春にちょっとしたご縁ができて諏訪さんのお人柄にとても惹かれたこと、そしてその秋に実現した音響監督・長崎行男さんとの対談「音響監督さんのお仕事Q&A」の中で諏訪さんのお名前が挙がったことで「これは是非ともちゃんとお話を伺ってみたい」と思い、今回の対談を申し込んでみました。

すると、2014年4月25日…この日の午後から諏訪さんは映画「名探偵コナン 〜異次元の狙撃手〜」の舞台挨拶のために大阪に向かわなければいけないという大変なスケジュールの中で快く引き受けてくださり、長崎さんに引き続き奇跡の対談が実現しました\(^o^)/

1時間ちょっとという短い時間の中で色んなことを語ってくださいましたので、今回の前編ではまず諏訪さんという方について知っていただけたらと思います。小さいころの様子から、どんな経緯で読売テレビに入社されたのか、入社されてからこれまでどんなことがあったのか…どれもこれも「おおっ!」の連続ですので、ぜひご覧くださいo(*^^*)o

ちなみに、この対談には作曲家・川崎真弘さんの七回忌で知り合って親しくなった徳武英章さんという方がカメラマンとして同席してくれてます。

 

 

☆諏訪さんは「」、1回しか出てきませんが徳武さんは「」、私は「」で表記します☆

 

 

〜諏訪さんとの出会いと再会〜

 

す:どもども!(笑顔で颯爽と登場)

ゆ:岩崎 琢さんのライブの打ち上げからだから、ちょうど1年ぶりですね。またお会いできて嬉しいです(*^^*)

す:そうかあ。あれからもう1年なんですねえ。

ゆ:私、あのときに初めて諏訪さんとお会いしたと思ってたんですが、実は2001年にあった和田 薫さんのオフ会にいらしてたとか…ぜんぜん記憶がなくてすみません(^^ゞ

す:ああ、和田さんのオフ会…あったね!行った!行った!

ゆ:当時「犬夜叉」のADさんだった斉藤朋之さんとお話した記憶はあるんですけど…斉藤さんはその後「まっすぐにいこう。」でプロデューサーさんデビューされるとかで、その録音レポでも少し触れさせていただいたんですよね。

す:ああ、そうでしたか!彼はいま電通で頑張ってますよ(*^^*)

ゆ:そうですか、懐かしいなあ。どうぞよろしくお伝えくださいね。では、色々とお聞きしたいことがあるので、始めましょうか…♪

 

〜小さいころの諏訪さん〜

 

ゆ:まず、諏訪さんは小さいころはどんなお子さんでしたか?

す:僕は単なる漫画好きでしたね。描く方じゃなく、読む方のね。最初は幼稚園か小学校に上がってすぐのころかなあ。隣のお兄ちゃんちに「少年」っていう漫画雑誌(1946年に創刊された光文社発行の月刊少年漫画雑誌)があって、そこで「鉄腕アトム」とか「鉄人28号」「ストップ!にいちゃん」に親しんでたのが一番最初じゃないですかねえ。もう50年くらい前の話ですよ。僕の原点は「少年」です。

ゆ:わあ、さっそく貴重なお話が!
では、そのころからぼちぼちとアニメにも興味を持ち始めた…という感じですか?

す:はい、まあ当然アニメも一緒に観てましたよね。そのころは作品で曜日が決まるっていうんですかね…たとえば「○○をやってる」って言えば「じゃ、○曜日だね」って分かる時代でしたから、夕方から夜にかけて毎日毎日ずっと見てましたね。

ゆ:へぇ〜!あ、もしかして子供のころからこうした漫画やアニメの世界のお仕事をやりたいと思ってらしたんですか?

す:いや、全然そんなことは思ってなかったですね。読んでるだけで満足してたんで、大学まで行っても趣味のままで良かったって感じです。

 

〜大学生からテレビ局入社を決めるまで〜

 

す:大学に行っても雑誌はよく読んでました。まあ貧乏なんで何でもかんでも読めたってわけではないんですけど、それでもたくさん読んでました。逆に大学に行ったらアニメはあまり見なくなったかな?僕は「ガンダム」をオンタイムで見てないんですよ。ガンダムは僕よりちょっと下の世代なんですね。

ゆ:あ、じゃあ「宇宙戦艦ヤマト」の世代って感じですかね?

す:そうですね。ヤマトはまあ見たかなあって…でも、ヤマトの裏で「アルプスの少女ハイジ」とか「フランダースの犬」とかをやってて、そっちの方をよく見てた気がしますね。

そのときのヤマトはこの読売テレビがやってて、視聴率が取れなくて2クールで終わることになったときに「ああ、僕も別のを見ててヤマト応援してなかったなあ」って思いました。でもまあ、また再放送で人気が出ましたからね。まあ基本的にアニメの歴史は全て体感してますよ(*^^*)

ゆ:なるほど…そのあたりもぜひお聞きしたいですね!

いやあ、諏訪さんは大阪大学工学部のご出身ですよね。てっきり漫画好きが高じて、映像を作る方にも興味が出てきて、大学ではそれを学ばれたのかと思ってました(^^ゞ

す:ぜんっぜん思ってなかったですねえ。どっちかって言うと、出版希望でした。あ、僕は工学部の中の「環境工学」ってところで、ものを創るというよりも環境アセスメントみたいな感じかな。ちょうど「アメニティ」って言葉が流行り出したころで、アメニティ…いわゆる快適空間というものを勉強して、都市再開発とか公園計画についての研究が僕の専門だったんです。で、製図とかを書いてる合間に趣味で漫画を読んでた…と。

ゆ:うわあ、全くの畑違いって感じですねえ。

す:環境工学科ってのは、石原慎太郎さん…後の東京都知事ですね。その石原さんが環境庁長官になったことがキッカケで出来た学科で、そこの学生の最後の目標としては「環境庁長官になりたい!」みたいなところがあったんですよ。意味もなく自然破壊反対じゃなく、自分の判断で自然を守れるなら、それもいいなあと思って。

もうちょっとお話すると、当時は電子とか通信の方は人気があって、倍率が高かったんです。で、僕が現役(高3)のときの大学入試は1期・2期ってやつで、そのとき僕は私学しか通らなかったんです。でも、うちはお金がないから…ってので浪人したら、ちょうど共通一次ってのが始まって、僕はそのおかげで阪大に入れたと思ってます。数学なんかは200点を取って当たり前な感じだったけど、英語は全くダメでね…で、二次試験に英語がないのが工学部で、その工学部の中でも「環境」って言葉に惹かれて、そこで上の方に行って「日本の自然を守る」ってものに就きたいなあと漠然と思ってたんですね。

ゆ:うんうん!

す:ところが、大学に入ってみると色々と分かってきて…いわゆる政治家とかが環境庁長官になっていくわけで、いくら公務員になって環境庁に入ったとしても、僕のやりたいこととはちょっと違うなあと、この勉強は僕には合わないなあって思ってきたんですね。

ゆ:ああ…まあ、やってみて気づくことってありますもんね(^^ゞ

す:で、さっきも話したように、大学での勉強の傍らでずっと雑誌を読んでたんで、発信する方になりたいなあと思ったんです。僕は特に「漫画アクション(1967年に創刊された双葉社の青年漫画雑誌)」が大好きだったんで、漫画アクションの中で文章とかコラムとか書けるようになりたいなと思って、東京の出版社を2つほど受けたんです。

それと同時に、大阪のテレビ局で報道制作ってのも面白いんじゃないかなあとも思ってたんですね。でも工学部なんで、学長推薦してもらえるかどうかで変わってくるんですよ。学長に推薦してもらえるのは電気とか電子のやつらで、推薦されると「ABC放送」か「毎日放送」が受けられる。僕みたいに推薦も何もない、ただ受けに行くだけってのが「読売テレビ」と「関西テレビ」だったんです。

ゆ:へえ、テレビ局っていう面では同じくくりなのに、そんなふうに分別されてたんですねえ。

す:そう。で、とりあえず面接に行ってみようってので臨んだら関テレは3次面接くらいまでしか行けなくて、ここ(読売テレビ)は5回の面接で取ってくれて…ってことで、ほんとに何も分かってない状態で入ったんです。

ゆ:それが、いまの諏訪さんのほんとのスタートラインですね!

 

テレビ局なんかに来たのは初めてで、まず1階の受付で「どちらの会社ですか?」って聞かれて「い…いや、個人なんですが…」とまごまご。

何とか20階の読売テレビの入り口まで来たものの、緊張のあまり呼び出し用の電話が目に入ってなくて「ここからどうするんじゃ?」ってあたふたしてたら、アポの姿が!(*゚▽゚*)

これにどれだけ癒されて、落ち着かせてもらったことか…(^^ゞ

 

〜入社から大阪勤務の2年間のこと〜

 

す:で、入社してから分かったんですけど、実は読売テレビにはちょっとした縁もあったんです。そのころ「ザ・恋ピューター」とか「パンチ DE デート」っていう視聴者参加型の出会い番組があって、読売には「ザ・恋ピューター」っていう桂三枝さんの番組があったんですね。僕、それに大学3年生くらいのときに出たんですよ。番組の景品がすごく良かったんで応募したら、出演することになっちゃって。「赤色1番!」なんてやってたんですよ(笑)

ゆ:わあ、そうだったんですか!(*゚▽゚*)

す:その「恋ピューター」が22時の枠から19時の枠に移動になったんですね。業界的には「昇格」ってやつです。で、その枠移動のときに番宣用のポスターを作ったんですが、それに何と僕が写ってたんですよ!(笑)会社としては特に意図したわけではなく、たまたま僕が出場した回の画像が使われてたってことなんだけど。

それ見て「ほらほら、僕がいるじゃん!『赤色1番!』なんてやってたんだよ!」って言ったりしてね(笑)で、そうやって学生時代に出た唯一の番組が読売テレビのだったんで、やっぱり縁があったってことなんですかねえ。

ゆ:うんうん、きっとそうですよ!
ところで、テレビ局の入社試験ってどんな感じだったんですか?

す:え〜っとね…いまでもまだ少しそういう風潮がありますが、20年くらい前は当たり前のように新聞の社説欄とかで「電車の中で学生が漫画を見てニヤニヤしてる。彼らはこれからの日本を背負っていく身なのに嘆かわしいことだ」みたいに書かれてたんですよ。でも、僕からすると「漫画を読んでニヤニヤしてるのが嘆かわしい」ってのがすでに理解できない。だって、映画だって本だって面白かったら笑うのに、何で漫画だけ…ねえ?

ゆ:そりゃ、そうですよね!

す:で、そうやって言う人もおかしいし、それを載せる新聞もおかしいと思ったわけ。まあ、僕も家では「漫画を読んだりアニメを見たりするくらいなら、何か他にやることないの?家の手伝いをするとか、ちょっと外を走ってくるとか…」って言われてましたけど、そしてそう言いたくなる気持ちも分からんでもないんですが、やっぱり漫画やらアニメやらがどれだけ僕らを育ててくれたエッセンスなのかってところも大事だと思うんです。ハードカバーの本ももちろん大事だけど、漫画からも文学を読んで得られるものと同じ情報や知識が得られるんですよ。それなのに、どうしても漫画だけ文化として1ランク下みたいに思われてるから、それがとても残念でしたね。

だから僕は読売テレビの面接のときに「マガジンに『明日のジョー』が載ってるのは知ってても他に何が載ってるか知らないのに『マガジンがいいわよ』なんて話をするのは送り手としておかしいと思うんです。僕は家に漫画を3000冊もってます。全部ちゃんと読んでます。それが大事だと思うんです。

そして『俺たちの旅』『刑事コロンボ』『手塚治虫』、この3つが僕をここにいさせてくれる理由なんです。まず『俺たちの旅』では、青春ドラマってので思いっきり好きなことをやるっていう個性みたいなのを中村雅俊さんに教えてもらって、『刑事コロンボ』でミステリーが大好きになりました。『鉄腕アトム』『ブラックジャック』を読んで、手塚治虫は漫画でストーリーを表現された第一人者だと思いました」みたいな話をしたら通してくれたんです。何のコネもない僕をね。

ゆ:諏訪さんのその漫画に対する真摯な気持ちがちゃんと伝わったってことなんでしょうね。いまの「コナン」も「刑事コロンボ」との関係が深そうですね。

す:そう!「コナン」をこうして何年もやれてるのも「刑事コロンボ」が好きだったからこそなわけです。

まあテレビ局の入社試験では、誰かの紹介かそうでないかでは最初からエリアが違うわけで、僕のときは15人が受けに来た中で4人が全くのコネなし。そのうちの1人が僕だったってわけですね。

ゆ:すごい…色んな奇跡や偶然があっての入社だったわけですね。で、入社されてからはどんなことをされてたんですか?

す:僕は制作志望で入ったけど、会社には当然ほかに「報道」やら「編成」やら、それに「経理」も「営業」もあるわけなんですよね。でも、僕はそれを入社するまで知らなかったんです。で、「なるほど、会社ってのはこういうところなのか」と思ったわけです。代理店って存在すら知らなかったですからね。まあ「電通」なんて名前の会社があることは知ってたけど、それが何をやってるところかは知らなかった…それくらい無知でした。

ゆ:おおお…まあ私も人のことは言えない無知っぷりなんですが、それにしても毎日が驚きの連続だったでしょうね。

す:はい。でもまあ入ってから色々と勉強して「物作りがしたい」ってことで制作を希望したら、「11PM(1965年から24年に渡って深夜に放送されていた日本初のワイドショー)」に配属される3人のうちの1人になって、AD…まあフロアディレクターっていうか、要は見習いとして行くわけですよ。

それから2年、基本的に人間扱いされない毎日でした。いまだったらパワハラとか言われて無理じゃないかなあと思いますね。でもそれは、言ってみれば修行なんですよ。あのときは会社に近づくと首が痛くなるとか、何か色々と原因不明のストレスみたいなのがあって「ほんともう、どうしようかな…」ってところまで追いつめられましたね。何をやっても否定されるし、でも言わなきゃいけないし。

ゆ:うわあ…。いままでにも「アシスタント時代は大変だった」なんて話をチラッとは聞いたことあったんですが、そんなにまで(>_<)

す:うん…。でも、そのときのことが物作りの「いろは」だったと、いまは思えますね。そのときは本当に苦しかったけど、相手もきっと「厳しく育てなきゃいけない」ってなことで厳しくされてたんだと思う。

で、入ってから2年経った1985年3月5日に火曜日のディレクターデビューして、半年がんばって、わりといい数字も取ったと思うんですけど、いきなり「おまえは東京へ行け!」って言われてね。

ゆ:えっ…それは「おまえはここでこれだけの数字を出したんだから、今度は東京でもっと勉強してみろ」ってことなんですか?

す:いやあ元上司が「漫画の好きな面白いやつがいるから、そいつを東京で使ってやってよ」みたいに言ってくれたんだと思うんですね。そのころ東京では「ルパン三世 パート3」や「一ッ星家のウルトラ婆さん」をやってたんです。

あ、読売テレビには燦然とした歴史があって、昭和41年に「黄金バット」が始まって、その後「ヤマト」「ルパン」「バカボン」と先輩方が数々のヒット作を生み出してこられたんです。でも、その方々も年齢が上になられて「ここらで若いやつにやらせよう」って流れがあって、僕が入社3年目に転勤となったわけです。

ゆ:なるほど…世代交代ってやつですかねえ。でも、それはなかなかのプレッシャーですね(^^ゞ

 

読売テレビの入り口には4月19日から公開されてる映画「異次元の狙撃手」の…こういうのを何て言うんでしょう?パネル?でも立体的だったもんなあ…じゃあオブジェ?

無知&ボキャ貧ですみません…とにかく大きなのが飾られてて、思わずパチり☆

 

〜東京に移ってからのことと「ロボタン」のこと〜

 

ゆ:そうして東京に移られてからは、まず何をされてたんですか?また何かの番組のアシスタントさんとかをされてたんですか?

す:さっき「最初の2年は人間扱いされなかった」って話をしたけど、東京へ来て最初にやった「ロボタン」のときは、何とプロデューサーだったんですよ。でもまあ「納品プロデューサー」って呼ばれてたんじゃないかなあと。結局、アニメはテレビ局が制作会社に発注して作ってもらうわけで、そうやって発注したからには放送する窓口がいるってことで、僕はそこの担当なわけですよ。

ゆ:ああ、番組のオープニングとかでのクレジットを見てると、制作会社のプロデューサーさんとテレビ局のプロデューサーさんの連名になってることがありますが、そういうことなんですね!

と:漢字で書くと分かりやすいんだけど、テレビ局みたいにお金を出す側の方が「製作」で、それを請けて実際に作る方を「制作」って言うんですよ。

ゆ:へぇぇ〜!(;゜○゜)
いままで「どっちの漢字が合ってるんだろうなあ」とか思いながら、そのときの気分で適当に書いてたんですが(ダメですよね…orz)、これはいいことを聞きました!

す:そうそう、そうなんですよ。
テレビ局のプロデューサーと制作のプロデューサーとでは、やってる仕事が全く違うっていってもいいかもしれない。どちらが欠けてもやっていけない…でも制作会社のプロデューサーの仕事は多いと思いますね。作品を描く人から音響まで、全て制作プロデューサーの責任になりますからね。

共同責任にはなってますけど、僕はどっちかっていうと出来あがってから放送するまでの宣伝や、読売テレビの映像を使ってどういうふうにビジネスするかっていうところの窓口になりますね。

で、「ロボタン」のスタッフのところを見ると、僕の第一の師匠で、いまはトムスの社長をやってる加藤俊三さんと僕と大広の菅沼章五さんの3人の名前が載ってるんだけど、僕なんかド新人ですからねえ。まあ、一応テレビ局側の責任者ってことで載せられてるけど「プロデューサーって何するの?」ってレベルですよ。「あの人はシナリオを書いて、この人は絵を描いて、その人は監督をやって…で、じゃあ僕は何をするの?」って感じだったんですねえ(^^ゞ

ゆ:へえ、そんなところからのスタートだったんですねえ。感慨深いです…。

す:はい。まあ、その番組の予算が分かって、その金額を入れたらどう使われるかってことを監視するってのも当然あるんですけど、代理店主導型でグッズを販売していきたいなあなんて戦略も立ててましたね。僕も相当の入れ込みようでしたよ。何といっても、僕の最初の作品だしね。好きすぎて、シナリオも書いちゃったくらいなんです。でも、それもちょっと違うなあと思うようになってきて…。

ゆ:あらま…諏訪さんの中に何が生まれてきたんでしょう?

す:ロボタンの視聴率が出てきたときね、悪くはないけど良くもないって感じだったんですよ。で、これじゃあダメだなあと…やっぱり自分がやりたいことをやらないとって思ったわけですね。

ゆ:ほうほう…では、そのとき諏訪さんがやりたいと思ったことって?

す:うん、僕がやりたいことって言うと、やっぱり漫画好きだから、読んでて面白いと思った漫画をアニメにしていくことなんですよ。「こんなに面白いんだから、アニメにして多くの人に見せたらいいんじゃね?」ってスイッチが入ってアニメにしていくわけですね。

 

〜「シティーハンター」がアニメになるまでのこと〜

 

ゆ:おおっ!それで実際にアニメ化されたものには、どんな作品がありますか?

す:そのころ面白いなと思ってスイッチが入ったのが「シティハンター」でした。

ゆ:うわあ、見てました!見てました〜!
神谷 明さん演じる冴羽リョウ(漢字が上手く表記されないのでカタカナで書きます)が最高でしたよね!私「超時空要塞マクロス」や「未来警察ウラシマン」で神谷さんのことが好きだったんで、「シティーハンター」を見たときには「キタ━(゚∀゚)━!!!!」でした(笑)その後、岩崎 琢さんが音楽をやった「エンジェル・ハート」まで、しっかり見てましたよ(*^^*)

す:そうでしたか!
あれ、先に日テレが「キャッツアイ」をやってたんで、「シティハンター」も日テレがやるのかなあと思って様子を見てたんですけど、いずれにしても話を持っていかなきゃって思って、集英社の門を叩いたんですね。同時期に小学館にも行ったし、ほかの出版社も行ったなあ。

ゆ:それは「これをアニメ化させてください」って言いに行くんですか?

す:そうそう。だってやり方を知らないから、まずはそこから始めようと思ってね。で、行くと「どこの制作会社でやるの?」って聞かれるんだけど「いや、まだそれは決まってなくて…まず、やらせてくれるかどうかが分かれば、それから動きます」って言ってましたね。いまはもうこんな切り込み方じゃないだろうなあ。まあ、そのころは何も知らなかったからね。

ゆ:へぇ、いまはどんな感じでやってるんでしょうねえ。

す:僕は大学の工学部出身だから、業界に誰も知り合いがいないんですね。しかも大阪でしょ?だからこちら(東京)で「早稲田がさあ」とか「慶応がね」なんて話が聞こえてくると、羨ましくて羨ましくて(笑)

で、唯一の知り合いっていうか、「11PM」をやってた同期の今村ってのがいて…あ、さっき「3人の制作が配属された」って話したけど、その中の1人ね。そいつがプロデューサーデビューとして「手塚治虫特集」をやったんですよ。うん、忘れもしない…1985年、僕は3月5日のデビューで、彼は21日のデビューです。そのときに手塚さんのマネージャーで古徳 稔さんって方がいて、その方と名刺交換したのが唯一アニメ界のつながりでした。それを機に手塚プロに出入りできるようになったことが嬉しかったなあ。

仕事というよりプライベートに近い感じで行って、古徳さんを訪ねて、清水義裕さんや広瀬 隆さんと知り合って…彼らとは、いまもときどき飲む仲なんですよね。結局、手塚プロとやったのは「ブラックジャック」までで、あれからもう10年くらい経つんですねえ。いずれにしても、そういう出入りができるからプロデューサーってのは悪い立場でもないなあ。出版社に行くと、ちょっとだけ早く週刊誌や単行本がもらえたりするしね。あれ、すごく嬉しいんです(*^^*)

清水義裕さん:株式会社手塚プロダクションの著作権事業局局長さんで、「ブラックジャック」「ジャングル大帝」「火の鳥」など数多くの作品の企画・プロデュースを担当されてます。うちのサイト目線…というか劇伴録音目線でいうと、2011年公開の「手塚治虫のブッダ 〜赤い砂漠よ!美しく〜」(録音レポはこちら)や、2012年公開の映画「グスコーブドリの伝記」(録音レポはこちら)などのプロデュースも手がけられてます。

ゆ:わはは、役得ですね!

す:はい(* ̄∇ ̄*)
で、とにかく「シティーハンター」をアニメ化したいってことで動いてたんだけど、まあ大人の事情っていうか紆余曲折あって…ほら、「キャプテン翼」をやってた土田プロダクションが倒産したりして、アニメ化をするハードルが上がった時期だったんですよ。結局、サンライズの植田益朗さんとやることになったんですが、原作の面白さをいかにアニメというドラマにして、歌をつけてパッケージにして送るかということについては、シティハンターから勉強しました。

ゆ:そうでしたか…私はそのころまだまだ子どもだったんで見て楽しんでるだけでしたが、その番組の裏ではそうしたドラマがあったんですねえ。

ところで、さっき諏訪さんのお話の中で「アニメにしたくて出版社の門を叩いた」というのがありましたが、最近はほんと漫画やライトノベルが次々アニメ化されてますよね。そういうのを最初に「アニメ化しよう」って言い出すのは、やっぱりプロデューサーさんなんですか?

す:それは制作会社だったり、出版社の映画部門だったり…と色んな人が言い出すけど、最終的に許可を出すのは原作者と出版社の編集部。互いにビジネスだから、許可をする限りは何かのメリットがないとね。だから社内でも「これほんとにやっていいの?」って何度も精査されるんですね。テレビ局が持ってる限られた枠の中で、本当に半年とか1年とかかけてやってもいいのかってことを編成部が判断するんです。

 

す:ちなみに僕は、東京の編成部。いまは編成部と宣伝部って分かれてるけど、その売る立場の方です。

でも、「シティーハンター」は宣伝担当もやってましたね。自分でノベルティ考えて、作って売るところまでやる。「YAWARA!」まではそんな感じでやってましたね。

ゆ:わあ、そんなとこまで…でも、ほんとに漫画が好きだからこそ色んなことを思いつくし、頑張れるんですよね(*^^*)

 

〜ここまでの道を振り返って思うこと〜

 

す:僕は外からは好きなことやってるように見られてるんですけど…うん、確かにそういうところはあるけど、こんなに長いことやってると、隙間だらけの僕を周りの皆がサポートする気持ちで「まあ定年までのあと数年を考えたら、好きにやらせといてやるか…仕方ねえなあ」って感じでやらせてもらってるのかなあ。その最初が「シティーハンター」で、「シティーハンター」がなければここにいないし、もっと言えば「コナン」がないとここにいないんです。僕は局長待遇なのに現場にいさせてもらえる、いい立場なんですよ。ああ役員待遇で監督をするとか、夢だなあ…給料たくさんもらって現場で好きなことするって、ね?(笑)

ゆ:いいですねえ(笑)
偉くなって現場のこととかもうあまりよく分からないけど、とりあえず上の立場だからあれこれ言うって人も多い中で、いつも現場と共にあって、その生き生きとした感覚の中で統括していってくれるって素敵ですねえ。うちの会社の上層部にも聞かせたい(笑)

す:あはは、いやいや…(笑)
で、作るものに関しては責任っていうかクオリティが大事になってくるでしょ。でも、自分が描くわけではじゃない…だからそのチームの管理っていうんですかね。チーム作り、それをしないと。

「シティハンター」のときに日本サンライズ(現サンライズ)の植田益朗さんと一緒にやって、そのやり方を教えてもらったんだけど、そのころから面白いやつだなあと思ってた南 雅彦くんが「bones」っていう良い会社を作ったよね。南くんとはドラゴンズファンという共感点もあって、仲が良かったんです。うん、僕は人にも恵まれたなあ。

シティハンターはまず月曜の19時から1年やって、そのあと青島幸男さんの「追跡」って情報ドキュメンタリー番組をやるってので、退かなきゃいけなくて土曜日の18時に移動。でも、日テレでは金曜の16時半にやってて、半年後に「シティーハンター2」ができたときに「これは面白いな」ってので金曜の17時半に移動したんだよね。おかげさまで読売の土曜18時の分は、視聴率が20%を越えたんだよ。

ゆ:わあ、そうでしたか…私は徳島なんで当然その読売テレビの方を見てたんですが、ほんと面白かったですもんねえ。そのころは週刊少年ジャンプで原作の方も読んでました。ここまで聞かせてもらってきて、ほんっと諏訪さんは素敵なお仲間と素晴らしい道を歩いてこられたんだなあと感動してます(*^^*)

す:やっぱり人間関係ですかねえ。信頼できる人、任せられる人が増えてきたってのは、プロデューサーとしてやってきた宝ですよね。普通は制作会社やその他で色々やって、番組が終わったらそれで終わりなんですよ。最近はアニメの数が多くて、みんなすごく忙しいから特にね。でも、いまでもずっと付き合いが続いてるってところが嬉しいし、それが僕の宝で、これからも大事にしたい。

ゆ:それはやっぱり諏訪さんの人徳ですよ。ほかの方も口々に「誰とでも仲良くなる諏訪さん」みたいに言ってますが、そこなんだと思います。私も去年お会いしたときにすごく惹かれて「もっとお話を聞きたい」と思っての今日ですからね。今日こうして会ってくださって、ほんと良かった(*^^*)

 

〜後編に続く〜

 

 

いかがだったでしょうか?
アニメ界の重鎮である諏訪さんの奇跡のような軌跡が分かって、楽しんでいただけたんではないでしょうか?

後編では諏訪さんが関わられた作品のこと、声優さんや劇伴作曲家さんのこと、これからの日本のアニメのことなど語っていただいてますので、 ぜひご覧くださいo(*^^*)o

 

後編は→こちら

 

2014年6月26日  

 

 

 

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