〜和田薫・喚起の時V 発売記念インタビュー第2弾〜
「喚起の時V 和田薫〜吹奏楽の世界」発売を記念してのインタビュー第2弾。今回は吹奏楽部での音楽体験を経て作曲家なるまでの経緯や、作曲家として現場で思うことなどをじっくり語っていただきました。人の数だけ人生のドラマがありますが、和田さんの歩んでこられた道はちょっと他ではないものがたくさんある気がします。 この対談には和田さんと私だけでなく、ライターの豊田朋久さんが同席しています。豊田さんは私がこのHPを作るキッカケの一言をくれた方であり、和田さんとも親交のある方です。そんな豊田さんだからこその質問のおかげで、和田さんファンの方はもちろん、作曲家さんとしてお仕事されてる方々にも読んでいただきたいと思うとても深い内容になったかと思いますので、ぜひご覧ください(*^^*)
インタビュー第1弾は→こちら
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☆和田さんは「わ」、豊田さんは「と」、私は「ゆ」で表記します☆ |
なぜ作曲家になろうと思ったのか…
ゆ:前回の続きですが、演奏する側からどうして作曲家になろうと思われたのか、そのあたりを聞かせてください。 わ:吹奏楽部に入って初めてホルンという楽器に出会って、これがなかなか面白い楽器だからハマっちゃって、吹奏楽曲を色々と聴いたんですね。でも、吹奏楽の中でのホルンって、大体は「ンパッ、ンパッ、ンパッ、ンパッ」っていう裏打ちで、あんまり面白くないんです。 で、ちょうどクラシック好きの友達がいて色んなレコードを貸してもらって聴いたら、オケの方がホルンの活躍する曲が多いことを知ったんです。当時マーラーが流行り始めてて、マーラーの好きな友達が交響曲の第2番とか聴かせてくれたんですけど、やっぱりホルンが活躍してて…それこそ吠えまくっててカッコいいじゃないですか。で、吹奏楽も好きなんだけど、オケの方がもっと好きになってきて、どんどんハマっていって…って感じですねえ。 ゆ:ああ、それで和田さんの書く曲のホルンは、どれもすごい目立って…奏者の目線で言うと難しくて大変で(笑)聴き応えあるんですねえ。 わ:そんな感じで高校の1年のときにクラシックが好きになり始めたんですが、あるとき指揮台のところに行ってみたらスコアってのがあって、パッと見たときに「これなら僕にも書けるかも?」なんて思っちゃって書いたのが、作曲を始めるキッカケだったんですよ。
初めて書いた曲について
ゆ:すごい…で、どんな曲を書いたんですか? わ:最初に書いたのは金管アンサンブルみたいなので、部員を集めて、皆で写譜してもらって、学校の裏で音出ししたんです。そしたらまあ、悲惨な曲でね(笑) ゆ:ええっ!? わ:そらもう各楽器の音域くらいしか分からずに書いてるからね。でも、自分がやってるホルンは、それよりもうちょっと分かったつもりで書いたんだけどな…。まあ皆の演奏もひどかったんだけど、それにしても自分の思ってたのは崇高なマーラーのような曲だったのに、全然ひどいチンケな曲で、何がダメだったのかすら分からない…。 吹いてくれた皆にも口々に「和田、何だよこのチンケなのは!?」みたいに言われてね(笑)しょぼーんとなって、「これは勉強してないからだ」と思って、その帰りに楽器屋さんに行ったんです。そこで初めてクラシックのスコアってのを見て「ああ、これがスコアか」って思って、わけもわからず和声本とか対位法とか何かそういう理論書みたいなのをいっぱい買って、色々と勉強するようになったの。そしたらだんだんハマってきちゃって…。 ゆ:そしてまた曲を書いた…とか? わ:うん。ある程度勉強して、もう1つ書いたんだよね。でも、さすがにまた皆に知れ渡ると恥ずかしいから、今度はクラリネットとファゴットの2重奏っていう小さな編成のを書いて、友達2人に「ちょっとやってみて」って吹いてもらったら、それがなかなかの出来でね。ちゃんと自分の思い通りに描いた曲になってて「これは勉強の成果ってのはあるもんだなあ」と。それでもっともっとのめりこんでいったんです。
作曲家か、それ以外の仕事か…
わ:そして高校2年のときに、今度は吹奏楽のフル編成の曲を書いたんです。でも、また音出ししてもらうのもなあと思ってたら、ちょうど旺文社の「全国学芸コンクール」っていう小・中・高校生を対象にしたコンクールがあったんです。それはまあ音楽・絵画・作文・書道…と色んな分野があるんだけど、そのときの音楽の審査員が團伊玖磨さんで、「團さんに作品を見てもらえるならいいなあ」と思って応募したんですね。 これがまあ僕にとっての腕試しでね、もし何か賞に入ったら才能があるかもしれないってことで続けてみよう、ダメだったら諦めようかなって思ってたの。そしたら佳作に入選したんですよ。で、やっぱり勉強はやってみるもんだなあ、もっと本格的に勉強したくなって、音大に行こうと思ったんです。
そして大学選びへ
ゆ:音大に進学するなら、それ相応に勉強しないといけないですよね? わ:そのころの僕は海外の作曲家だとマーラーやストラヴィンスキー、日本だと吹奏楽のかねびん(兼田敏)さんくらいは知ってたけど、現代音楽はほとんど聴いてなかったんです。せいぜいラジオで聴くくらいだったんだよね。 で、これではいけないなあと、日本には他にどんな作曲家がいるのかなあと思って地元で売っているレコードを聴いてみたり、大学受験の情報誌みたいなので音大の先生が載ってるのを見て「へえ、こういう作曲家がいるんだ」と思ってレコード屋に行って「この人かあ!」って買って帰ってきて聴いたりしてました。それこそ、別宮貞雄さんとか三善晃さんとか入野義朗さんとか…ほんと、たくさん聴きました。 そんなとき、山田耕筰の交響詩「曼陀羅の華」の入ったレコードを見つけて「山田耕筰って『赤とんぼ』なのに、交響曲も書くんだ…どんなんだろう。聴いてみよ〜♪」って軽い気持ちで聴いてたら2曲目に伊福部昭先生の「リトミカ・オスティナータ」が入ってて、それ聴いたときに「何じゃ、こりゃあ!すげー!」ってドカーンとショックを受けて、「この人だ!」って思ったんです。 で、「伊福部昭?この人はどこにいるんだ?生きてんの?」って思いながら解説を読むと、まだ生きてるらしいってことが分かって、さらに調べていったら東京音大にいるってことが分かったんですよ。 ちょうど同じころにラジオのFMで「オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ」が放送されて、これがヤマカズさんの初演の録音だったか……。 と:尾高忠明が東フィルでスタジオ録音したのも放送されていますね。 わ:うん、忠明さんとヤマカズさんとどっちかちょっと覚えてないんですけど、それを聴いてまた「何じゃ、こりゃあ!すげー!もうこの人しかいない!」ってなって、東京音大へ行こうと。それが確か、高校2年の冬だったかな。 ゆ:現役で入学されているんですよね。実質1年で勉強を? だって、高校に入るときにはギター小僧で、それがホルン始めて…ですよね? わ:だから僕ピアノは高校からで、ハノンから始めたんですよ。 ゆ:ええ〜!たった3年で受験できるまで持っていくとは…ほんと、すごいですよねえ! わ:そらもう鬼のように勉強しました(笑)
音大合格のためにやったこと
と:音大志望の学生は前年に講習会に行ったりしますが、和田先生もそんな感じで…? わ:いやあ、それがね…ぶっちゃけて言うと、さすがに音大は無理だろうと思って、どこかの音大の附属高校から入り直そうと思ったのね。高校2年のころです。そのときはまだ伊福部先生のこと知らなくて、いろいろ探してるうちに国立音楽大学の附属高校を見つけて、冬の講習会に行ったんですよ。 で、僕の中では、1回コンクールで佳作にも入ってるし、それなりに勉強もしてきたし…って気持ちで行ったんだけど、周りはみんな中学生って中で国立の担当の先生に「こんなひどい…いったい何を勉強してきたんだ!」って、けちょんけちょんに言われたんですよ。で、「やっぱりダメかあ」って思いながらも好きだったんで勉強して、そしたらさっき話した感じで伊福部昭って人のことを知って、これはもう東京音大しかないと思ったわけです。
まさかの伊福部先生との対面
わ:そして高校3年生の夏休みに東京音大の講習会に行って渡された資料を見たら「担当教官:伊福部昭」って書いてあってね、もう「マジで〜!?」って、そりゃあ大興奮っすよ!! ゆ:ええええええぇぇ〜! わ:これは後で知ったんだけど、伊福部先生は学長だから本当は講師なんてしないんだけど、その講習会の先生が病気で出れなくなって、たまたまその年だけ伊福部先生が担当してくれてたの。 ゆ:うわあ、すごい奇跡!まさにもう運命の出会いですね! わ:まあ当然、伊福部先生は受験なんてアカデミックな和声とか何にもやらないけど、僕は先生に会えるだけで大興奮だったからね。で、実はマーラーみたいなオーケストラの曲も書いてたの。それを持っていって「先生、見てください!」って渡して、いろいろと添削してもらったんですよ。そのときに「どんな勉強やってるの?」って聞かれたんで「和声はこれとこれで…」とか言うと、そのとき東京音大にいた有馬礼子さんを紹介してくれたんです。 で、有馬先生のところに行ったらまた国立の講習会のときと同じように「あんた、何やってんの!」って言われて、あっちもこっちも×だらけでノート真っ赤になっちゃって…(笑) とりあえず「下関ではこういう本を見てました」って、長谷川良夫さんの「大和声学教程」を見せたら「それ、私が学生のときに使ってた本よ。あなた、もうそんな古いのはやめて!これからは、これとこれとこれを買いなさい!」って言われて、東京の池袋のヤマハでそれらを買って、それからは猛勉強ですよ。 ゆ:でも、誰か先生につくってわけでなく、独学でしょ? わ:うん、下関に作曲の先生なんていないからねえ。高校時代までは独学ですよね。 ゆ:独学っていっても、音大を受けるくらいの内容となると自分で見てるだけではちんぷんかんぷんなところも結構あるでしょ? わ:まあねえ。いまならインターネットとかあって何でもすぐ調べられるけど、そんな時代じゃないしね。だからまあ時間はかかったけど、やっぱり好きだから必死で調べたし、その分しっかり勉強できたかなって。 ゆ:いやあ、そのがむしゃらさに胸が熱くなるというか…いやもう、ほんと素晴らしいですよ。でも、正味1年でしょ? わ:そう、だからもうほとんど寝てないですよね。でも、音大の受験って…東京音大は私立だから国語と英語しかないんですよね。その他の授業は必要ないから、ほとんど学校に行かずに自分で勉強してました。学校に行っても、こっちでは理科やってるけど、僕は和声とか楽典の勉強をしてたりね…(笑) ゆ:まあ高校3年生の授業って、そんな感じですよね。私も化学の時間に生物の勉強をしてたような…でも、それにしても、すごい頑張りだと思います!
2回目のコンクール応募とその後
わ:で、ちょうどそのころ同じく旺文社のコンクールにオケの曲を出してて、今度は2位くらいになったのね。で、そのときの1位だった人がちょうど東京音大のHさんって人で、その人に宛てて手紙を出して、大学のリサーチをしたのね。そしたら丁寧なお返事をくれて、それから文通が始まったんです。文通ですよ文通。メールなんてないから…男の先輩だけどね(笑) それからはもう「○○はどうですか?」「△△とは何ですか?」「この先生はどんな人ですか?」って質問攻め。そしたらいつも「うちの大学にはこういうのがあります」「伊福部先生はゼミを持たれてて、こういうことをやってます」って丁寧なお返事をくれて…そういうやりとりを何度もして「あ、そうなんだ。よし、頑張ろう!」って、どんどんモチベーションが上がっていきました。 ゆ:へえ。その出会いがまた何とも運命的ですよねえ。 わ:そのときの1位がたまたま東京音大の人だったってのがね。 ゆ::それもそうやけど、その方にお手紙を出す和田さんの勇気と、それにちゃんと答えてくれた誠意…それらがなかったらまた広がっていかんかったことだろうし、いろんな奇跡が重なってますよねえ。 わ:まあねえ。Hさんは僕が大学に入ったときにちょうど4年生で、そのときの4年生って藤原豊さんとか小平光一さんとか濃いキャラクターの方がたくさんいたんですよ。で、そのHさんが「何か面白い後輩が入ってきたよ」って僕のことを色んな人に紹介してくれて、そんなおかげもあって結構いろんな現代音楽の演奏会とか面白い話を聞かせてもらったりしたこともありましたねえ。まあ、ほんと何にも知らない田舎者だったんで(^^;; ゆ:伊福部先生については? 一方でゴジラの音楽でも有名ですよね? わ:今でこそそうなんですけど、そもそも僕は伊福部昭の世界には「リトミカ」と「ラウダ」から入ったから、ゴジラとは全く結びついてなかったんですよね。でも、そんなまま大学に来たら、あるとき「ん?何か変わった人たちがいるぞ?」ってびっくりしてね(笑) それがゲルニカの上野耕路さんやヒカシューの井上誠さんたち。それで僕自身も「ゴジラの音楽を書いた人だったのか!」みたいなね。ちょうどキングレコードや東芝EMIから映画音楽をまとめた全集のレコード出たりしていましたよね。 と:和田先生が東京音大に入られた時期と特撮映画を中心に伊福部先生が手掛けた映画音楽に再び脚光が当たり始めた時期は一致していますよね。 わ:うん、83年に日比谷公会堂で「SF交響ファンタジー(第1〜3番)」が初演されたのが、僕が3年生のときで、まさにそういう時代だったんですねえ。
土俗的舞曲の生まれた背景
ゆ:ところで、大学時代は吹奏楽との関わりは? わ:僕の音楽の原点は確かに吹奏楽なんですけど、合奏体としての興味がオーケストラの曲や現代音楽や民族音楽の方にいっちゃったんで、高3のときにはもう吹奏楽部を辞めてるんですよ。出入りはしてたけど、コンクールには出てない…まあ、受験のこともあったしね。 大学に入ってからはますます吹奏楽から離れてたんだけど、久々に触るキッカケになったのが「吹奏楽のための土俗的舞曲」なんです。これが全日本吹奏楽コンクールの課題曲になったのは、僕が大学4年生のとき。つまり、作ったのは大学3年生のときになります。 と:原曲はピアノ曲だったんですよね? わ:それはさらに遡って大学2年生のとき。東京音大の作曲科は1年と2年はピアノが必須でね。1年のときはまあそれなりにやるんだけど、2年になると発表会があるんです。その曲目を決めるときにピアノの先生に「あなた作曲科なんだから、自分の曲でも弾きなさいよ」って言われて作ったのが、「土俗的舞曲」の元になる「ピアノのための連画」です。 ゆ:へえぇ〜! わ:で、その発表会には作曲科だけじゃなく管楽器科とか色んな連中が出るんだけど、それに一緒に出てたトロンボーン専攻のやつに「和田くん、あの曲って課題曲にしたらいいいんじゃね?吹奏楽に向いてない?」って言われて「あ、そういえばそうかもねえ」って思ってアレンジっていうか作曲しなおして応募したところ、課題曲として選ばれたんです。ただ、それからまた吹奏楽から離れちゃいますけどね(笑) と:「民舞組曲」のインパクトからか吹奏楽と縁が深い印象でしたが、実はそうでもなかったんですね。 わ:結局、「吹奏楽のための土俗的舞曲」を書いてからは大分空きますね。
作曲家の生きる道
と:課題曲に選ばれたのを機に、団体の指導や委嘱とかで吹奏楽方面に行かれる作曲家もいるかと思いますが。 わ:いまの若い人はそういうケースもあるけど、僕の若いころはどっちかっていうとオケのアレンジものや、アフルレッド・リードとかのアメリカの作曲家が主流だったんです。邦人の作曲家はまだぜんぜん流行ってなかったですね。それこそ、保科洋さんやかねびんさんくらいしかいなかった。 だからオケの方へ行って、そのうち気がついたら劇伴界の方へ行ってて(笑)劇伴界ってドライじゃないですか。先に需要と供給があって、基本的には個人とのやりとりなんで、僕にはそっちの方が合ってるなあって思ってね。 と:それに生きている以上、何らかの手段で食べていかないといけないですよね。 わ:そもそも作曲家が生きていく道って3つしかないと思うんですよ。1つは劇伴音楽っていうか商業音楽ね、もう1つは学校の先生、もう1つはプロデューサーとして自分で作っていく…。僕が学生のころから見てて、作曲家はこの3パターンしかないって思ったのね。 そこで自分はどこにいけるかなと思ったときに、まず学校の先生は嫌だと思ったの。で、プロデューサーになるにはまず実績と信頼とがないとできないし…。でもまあアメリカに行ったときに、ミシガンでプロデューサーまがいのことをやったりはしてたんだけど、結局はここかなあってことで劇伴の世界に落ち着いたんです。 ゆ:なるほど、3つかあ…。でも、和田さんは今回の吹奏楽CDのように、劇伴だけじゃなく純音楽の方にも精力的ですよねえ。そういう人、あんまりいないような…。 わ:まあ、もともと僕はオケとかの活動が多かったんだけど、そのころから基本的には劇伴は劇伴、純音楽は純音楽って両輪だと思ってたし、僕の若いころはそれこそ芥川也寸志さんも武満徹さんも両方やってたからねえ。 と:最近はジャンルの細分化なのか、特に顕著ですよね。劇伴に特化した作曲家が増える一方、現代音楽は現代音楽でマニアだけの閉塞的なジャンルに陥っているんじゃないかと思います。 わ:だから僕が「喚起の時」っていうタイトルにしてるのも、本来ならば何故こう感動するのかとか、盛り上がる気持ちとか、膨らむ情熱っていうのはどこからくるのかっていうことなんですよ。 たとえばアマチュアがベートーヴェンとかやってるのは、それは単なる記憶の掘り返しなんですよ。でも、記憶を掘り返すんじゃなくて、知らないものを聴いても何か込み上げてくる感動っていうのはあるはずだからね…。 |
と:そう、クラシックは往々にして、みんなが知ってるいわゆる「名曲」を楽しむっていうことになりがちですよね。 わ:そうなんですよね。でも、それ(知らないものを聴かせて感動を与える)はプロだけのものかっていったら、そうではなくて、逆にプロの方が現代音楽じゃなくてマーラーとかブラームスばっかりやってるでしょ? どうしても「この方が喜んでもらえるだろう」って考え方に偏ってしまうけれども、むしろ大衆は記憶の回帰ではなくて、新しいものを提示したときにでも喜んでもらえるものがあるわけですよね。 そのきっかけが何かっていうのがわかりやすいのは、僕は大衆の方だと思うんですよね。そういう部分をフィードバックできるのが純音楽。商業音楽の場合は演出とか背景に色んなことがあるから単純にフィードバックはできない…両方やれてる僕はメリットだと思うんですよね。 |
「海響」銚子から全国へ
ゆ:話を吹奏楽に戻しますが、その後また戻ってくる経緯というのは? わ:しばらく離れてた吹奏楽への次の復活のキッカケが「海響」でね、当時の新星日本交響楽団(現東京フィルハーモニー交響楽団)が銚子で公演するにあたって「銚子をテーマにした自分たちの曲がほしい」と依頼されて作ることになったんだけど、そのとき同時に「地元でも長らく演奏できるように、吹奏楽版も同時に作ってくれ」って話もあってね。地元の銚子商業ってのは僕らの時代では全国大会の常連校ってくらい上手い団体だったんですよ。 ゆ:ああ、最近の千葉やと、まあ柏とかねえ。 わ:うん、あっちの方が上手くなっちゃったけど…まあ、華々しいころの上手い楽団もまだあるし、吹奏楽版も一緒に作ろうってね。だから吹奏楽版でも効果が出るように両方あわせて書いたんです。で、最初はオケで、次に吹奏楽でってやったんですけど、まあまあいい感じってところだったかな。 で、これもまた巡り合わせっていうか…この「海響」を今度は大津シンフォニックバンドがやることになったんだよね。それまで大津は伊福部先生の曲をやってたんだけど… と:98年の吹奏楽コンクールで金賞を受賞した大津の「シンフォニア・タプカーラ」の第3楽章は伝説的な名演ですね! わ:そう。で、新しい曲をってことになったんだけど、そもそも伊福部先生は吹奏楽があんまり好きじゃないから(笑)僕のところに回ってきたんです。 ただ、僕も吹奏楽からしばらく離れていたから、最初は断ろうとしたんだけど、大津から「是非」と懇願されて「そういや最近書いたのがあるけど、これなんかどう?」って「海響」のオケ版を聴いてもらったんです。そしたら「それ、めっちゃやりたいです!」みたいになって。 で、これなら吹奏楽版もあるし…ってことで話が進んでコンクールで演奏したら全国大会で金賞になってねえ。それから全国へ広がっていったって感じ…それが1999年かな。 ゆ:へえ、そんな経緯で皆の知るところとなる「海響」になったんですねえ。何事もそうですけど、キッカケっていうか転機っていうか、そういうお話って面白いですよね。
劇伴の作曲とテンプミュージック
と:最近は劇伴作曲家を志す人が増えてきて、実際になっている人もいますけど、和田先生としてはそういう道についてはどうお考えですか? わ:劇伴の作曲家になりたいってのは…うん、もちろん劇伴も1つの文化であり芸術なんだけど、結局は誰かの後を追ってきてるわけじゃない。作品を作るってのはどういうことかってのを、自分の中でちゃんと勉強して積み上げていくのが足りない人が多いかな…。 たとえば「『スター・ウォーズ』みたいな曲を書きたい」って書いたけれども、ぜんぜん絵と合ってないとか、監督の意図とぜんぜん違うとか。この作品は何を要求されてて、この監督はどういうタイプの人かってのを分かっていて仕事をするのが劇伴作家の基本なんですよね。つまり劇伴作家ってのは、純音楽と違って「職業作家」なんですよ。 ゆ:「スター・ウォーズみたいな曲を書きたい」で思い出した! わ:これはよく言われる話で、いわゆる「テンプレートミュージック」ってやつですね。監督や演出家が「こういう音楽で…」とか「こういうイメージでいくよ」って自分の意図を伝えるために貼ってくる場合があるんですよ。で、それはいいんですか、悪いんですかって、よく問題になります。 最悪の場合はスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』みたいに(長崎行男さんとの対談の中盤『音楽メニュー作りとテンプミュージック』参照)なっちゃうという恐怖はあるけど、初めて一緒にやる監督の場合は「この監督はどういう系統が好きなのかな」ってのを知る意味での道筋にはなりますよね。 あと、「スター・ウォーズ」のときに監督が散々プロコフィエフだとかプッチーニだとか色んな音楽を貼ってきたけど、じゃあジョン・ウィリアムズがその通りにやったかっていうと違うんだよね。もちろん、「トゥーランドット」みたいなところも出てくるし… と:「春の祭典」そのまんまのところもあるし(笑) わ:そう(笑)でも、彼は彼なりのメロディーを作って提供して、その出来が良かった。ただ、それが出来上がるまでに監督から具体的な名前を挙げられての指示があったことで「この人は、この作品は、こういう傾向なんだな」ってのが分かったのは大きいですよね。 だから「○○風に」ってのはありなんですよ。映画音楽ってのは職業作家の領域だから、職業作家のやり方としてはいいと思うんです。 ゆ:なるほど…。 でも、その「○○風に」って言ったときに、パロディにするのか、オマージュにするのか、その線引きも難しいところだねって話も三間さんとの対談の中でありました。 と:パロディで頼んでるのか、監督あくまでイメージで伝えようとしてるかで意味合いが全く違いますよね。 わ:それを色んな部分で咀嚼して汲むのは、作曲家の力量になるわけですよ。そこでちゃんと勉強してるかしてないかで、そのまんま言われたことをやって「アウト!」ってなる場合もあるし「つまんな〜い!」って言われることもあるし、ときには「おまえパクリやないか!」って周りに言われることもあるだろうし…。そこは作曲家がきちんと「ドラマトゥルギー的には、ここはこうした方がいいんじゃないですか?」ってテーゼはできるわけですよ。まあ、伊福部先生はそれで最初に喧嘩しちゃったからアレなんだけれども(笑)。 と:伊福部先生は「銀嶺の果て」ではじめて映画音楽の仕事をした際、「スケーターズ・ワルツ」のような明るい曲を欲していた谷口千吉とイメージの相違でケンカしたという。 わ:でも、作曲家としてそういう意見を言える立場であるってのは、僕はありだと思ってるんですよ。伊福部先生の時代もそうだったと思うけど、結局いっぱい作品を抱えていると、もう作曲家に任せるしかないんですよね。で、逆にそれの方が作家性を生かせたってことはあるよね。でも最近はそこまでの本数を抱えてる人がいないから、どうしてもあれこれ注文が増えてくるっていう傾向にはあると思います。
スタッフとのコミュニケーション
ゆ:そういや三間さんのお話では、デモを聴いてOKを出して、その後どんな進化を遂げるのかと思ったら、デモとほとんど変わらないままでビックリすることがあるみたいですね。もちろん、薄っぺらい打ち込みのオケが壮大なフルオケになって感動することも多いみたいですけど…。 わ:そこが今の制作体制っていうか…昔は時間がなくて作家にお任せだったけど、そのぶん作家が好きなように書けたってのはあったし、予算もまだそれなりな部分があったよね。いまは時間はあるけど、意思の疎通がそんなに図られてない…そういうところはありますよね。
作曲家もダビングに立ち会う
と:そういえば和田先生はMA(ダビング)にも頻繁に立ち会うと聞いたことがありますが? わ:ええ。そこでスタッフと色々と話したりするんだけれども、そうやって音響監督さんや演出家さんたちからの声があると初めて心が開かれるってのはあるよね。音楽会議で初めて会ってちょっと話しただけの方からメニューもらっても、そのメニューをすんなり受け入れられないときはあります。 と:映画はともかく、テレビの劇伴なら録りが終われば、普通作曲家の仕事は終わりですよね。そこを敢えて時間を割いてスタジオまで行かれるってのはすごいなあと思って…。 わ:もちろん毎回そんなことやってるわけにはいかないので、まず1本目は必ず行って「この作品はこういうもので、こういう方向でいきましょう」ってお話をするんです。あ、別に上から目線で言ってるんじゃないんですよ(笑) ゆ:うんうん、現場の方々も作ったご本人の意図を直に聞けて、さぞかし視野が広がったでしょうねえ。 わ:基本的には1話でコンセンサスが取れてれば、あとはそれでうまくいくんで、最初の1本と、途中の何話かは行ったりしますね。 と:そもそもMAに立ち会うようになったきっかけがあったのでしょうか? わ:ええ。最初はまだデジタルじゃなくてテープだったころですね。普通、テレビのダビングって2〜3時間で終わるんですけど…。とあるアニメの第1話のダビングに8時間かかったことがあるんですよ。選曲家さんがつけてきたものを元に「いや、この作品はこういうテイストじゃないんです」と、その概念から話したんです。 たとえば「追いかけるシーンのときに追いかけるような音楽をつけるってのではないんです」とか、「この作品は最終的にどこに持っていきたいかっていうと、悪者は確かに悪者なんだけど、その悪者にも事情があるっていう…そのやむにやまれないこの気持ちを持っていかなければいけないでしょう」ってね。 で、そういうストーリーに持っていくには、音楽をどういう設計配分にすればいいのかな…っていう話を、ああでもないこうでもないとやってると8時間くらいかかっちゃったのね。 と:つまり画に付いてはじめて仕事が完結すると。素晴らしい姿勢ですね わ:いやいやいや、ほんとに現場からは嫌われてると思いますよ(笑) と:円谷プロ作品の音楽で有名な冬木透先生は「ウルトラセブン」の全てのエピソードで選曲とダビングに立ち会ったそうですが、「それは曲を書いた人間の責任だ」と仰っていました。いま和田先生のお話を聞いて、まさにそのことを思い浮かべてました。 わ:うん、そうしないと誰が書いても似たようなドラマになっちゃうんですよね。映画だったらドラマトゥルギーに応じて色んな演出できる時代もあったけど、いまは選曲システムがメインになってきて、そこに音楽の演出論は生かされるのかといえば、ほとんど生かされていないのが現状です。作家もそういう責任を持ってやってる人もなかなか少なくなってしまって…。 だから本来なら冬木さんのおっしゃるように現場に行って、どういう使われ方をしてるのか見て、これはどういう想定のもとで作ったかってのを分かってもらう…。まあ、いい作品作りをするための第一歩っていうか…うん、一歩って言ってもいいくらい初歩の初歩だと僕は思うんですよね。現場の音響監督さんとしては目の上のたんこぶになるかもしれないけど(^^;; と:そこまでが作曲家の仕事として認知されるのが理想的なんでしょうけどねえ。 わ:選曲をする上でのロジカルなものっていうか、アカデミックなものも作家にとっては必要だと思うしね。それこそ最初の話じゃないけど、劇伴に憧れて劇伴を書く人になったにもかかわらず、書いて渡して終わりって人が多いのがね。僕からすると、それって何に対して憧れてるんだろうって思いますよね。 ゆ:自分の音楽が使われてる番組なのに、そのオンエアをチェックしない人もわりといるみたいですよね。 わ:だから本来なら、絵に合ったとき、セリフに合ったときに、ほんの何フレームかだけでガラッと印象が変わるっていうところも経験しながらやった方が面白いのに、劇伴作家に憧れながらも現場にいかない若い子が多いってのは、僕らにとってはちょっと不思議ですよね。 ゆ:なるほどねえ…。 わ:お陰様で、今の状況がある意味一番バランスよくやっています。アニメ・映画・イベント・純音楽の発表・海外公演や著作権等の勉強会、オーケストレータートしてアレンジの仕事も好きなので、そちらも…。 来年の5月には、また伊福部先生のゴジラ音楽祭を京都でやります。一つ一つを丁寧に、そして吟味しながらやっていきたいですね。 ゆ:いやあ、和田さんがこれまで歩んでこられた道やお仕事への姿勢、もう色んなところで大事なことをたくさん学ばせていただきました!今後のご活躍をますます楽しみにしています\(^▽^)/ |
いかがでしたか?
2015年10月24日 |
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