第6回定期演奏会の資料

 

 



ゲネプロの様子

打ち上げの様子


 

 


 

 

 

〜演奏曲目解説〜

☆ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第5番 Op.18−5

この曲は1800年ごろ…つまり、ベートーヴェンがもう中途失聴者になってからまとめられた、全6曲からなる作品18の中の1曲です。

一般的には「あまりベートーヴェンらしくない」との声が多いんだそうですが、それもそのはず。この曲は、どうやらモーツァルトの弦楽四重奏曲第18番の影響をとても強く受けているようなのです。形式や曲想はもちろんのこと、各楽章の長さ(曲全体の中で占める割合)までも似ているんだとか…。

また、この作品の中心とも言える第3楽章でコラールが出てくるんですが、コラールといえばキリスト教の中ではプロテスタントに親しまれている音楽ですよね。で、ベートーヴェンはドイツ生まれなので、別に「プロテスタントの音楽に親しみがある」と考えてもおかしくなさそうなのですが、実はベートーヴェンはドイツの中でもカトリック圏で生まれ育ち、活動の拠点もウィーンなどのカトリック圏に置いているんです。だから、この「コラールを使う」というあたりには、何か大きな意味があるのではないかとも思うんですが、これ以上のことは私には分かりません(^^ゞ

あと、第4楽章ではヴィオラの中に交響曲第5番の「運命」に似たメロディが出てくるんですが、「運命」は1807年から1808年にかけて作曲されたようなので、この弦楽四重奏曲がキッカケで「運命」が生まれた…と思ってもいいのかもしれませんね♪

 

…と、ここまでをネット検索や手元にある音楽辞典などを見ながら書いて、成田さんに「間違ってないかどうかチェックしてほしい」とお願いすると、何と↓のような詳しい補足説明を送ってくださいました。ほんとは成田さんからのメールを参考に私が自分の文章をきちんと書き直すべきなんですが、成田さんの考察がとても深くて分かりやすくて、下手に私が手を加えるのがもったいないので、そのまま載せちゃいます(^^ゞ

 

まず「モーツァルトの影響」ですが、勿論ベートーベン自身がモーツァルトを意識的に「意識」した所は有りますが、そもそもOp.18シリーズは弦楽四重奏と言うものを彼らしいやり方で先人達のスタイル・伝統・手法を学びとる為の勉強として書いた様な部分もあると思われます。6曲のセットというのはバロックの時代からあるスタイル(バッハの無伴奏ヴァイオリンのソナタ・パルティータや無伴奏チェロ組曲、編成変化型ではブランデンブルグ協奏曲等)ですし、弦楽四重奏の作品形態と演奏形態はハイドンが確立・発展しましたし(ハイドンは6曲のセットを沢山残しています)、そしてモーツァルトは有名な「ハイドンセット」で弦楽四重奏と言うものを実に完璧な表現形態に仕上げました。しかもモーツァルトはほぼハイドンやその他の先人による材料だけで。

ベートーベンのOp.18はそんな歴史の一つの句読点、転換点、新たな歩みへの露払い的な作品と見なす事が出来ます。所謂「中期」と呼ばれるOp.59のラズモフスキーからは完全に新たな弦楽四重奏の世界を作り出しています。彼はラズモフスキーを作曲中に友人に宛てた手紙の中で、「今弦楽四重奏を作曲しているが、それは今までとは全く違う、勿論前の私の物とも全く違う手法で書いている」と書いています。実際ベートーベン以降の弦楽四重奏の作品はベートーベン中期や後期の作風の影響が強い物が多いと思われます。

次に「コラール」についてですが、僕個人の考えでは「宗教的(あるいは信仰的)反駁」の様な意味合いはこの場合あまり無い気がしています。確かにウィーンはカトリック圏ではありますが、当時音楽の高等教育を受けている人々は少なからずブクステフーデやバッハの対位法を学んでいるので、その中で彼らの遺したオルガン・コラールやその他のコラール作品に触れていると思われ、むしろその影響でコラールのテーマによるヴァリエーションを書くのはどちらかと言えば単なる個人的信仰心と作曲技法の誇示なのではと思うのです。ただこれはあくまでも僕個人の見解で、もしかしたらレトリックから調べると何か出てくるかも知れません。

最後に「運命のメロディー」について。最終楽章の始まりが「タタタターン」ですから、表情は大分違うもののその頃のベートーベンの中にこのリズムが何かモットーの様に有った事は確かだと思われます。しかしOp.18−5だけがきっかけになったとは言い切れないので、「この頃既に第五交響曲の幾つかの要素がベートーベンの中には芽吹いていた様で、この作品の中にもその発露が見受けられる」なんて感じでどうでしょう。


☆バルトーク 弦楽四重奏曲第3番 Sz.85

バルトークは過去の偉大な作曲家の曲を研究して学ぶよりも、同世代の作曲家の影響を受けることの方が大きいような人だったそうです。中でも、バルトークより7つ上のアルノルト・シェーンベルクが創始した「12音による無調の音楽」にはとても影響され、そのシェーンベルクのことを尊敬もしていたようです。

「12音による無調の音楽」関連サイト→CLICK(ちょっと難しい…)

シェーンベルクと言えば「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」などのミュージカル音楽を作曲したクロード=ミッシェル・シェーンベルクのことをご存知の方も多いかもしれませんが、この人から見て無調の創始者であるアルノルト・シェーンベルクは「祖父の兄」に当たるんだそうですよ。

で、バルトークは、やがては「民謡には全て調性が存在する」と言ってシェーンベルクの無調の音楽からは離れていくんですが、この弦楽四重奏曲第3番はシェーンベルクの影響を最も強く受けた作品とも言われてるそうです。

この曲を初めて聴かれた方は「…え?」「…は?」と目が点になった方も少なくないんじゃないでしょうか。たった15分くらいの短い曲の中に強烈な不協和音や複雑なリズムがたくさん出てきます。しかも、ただでさえ複雑なリズムなのに、それをパートごとに違うリズムを刻んでいるので、聴いてる方にはさらに複雑に聴こえるわけです。こういう、パートごとに異なるリズムを刻むことを「ポリリズム」というんだそうです。

それから、曲中に「コル・レーニョ」とか「スル・ポンティチェロ」という特殊な奏法が出てくるようです。これを手元にあった音楽辞典で調べてみると、「コル・レーニョ」は「弓の反対側の木の部分で叩くこと」で、「スル・ポンティチェロ」は「駒の近くを弓で擦ること」なんだそうです…が、こんな説明で皆さんはお分かりでしょうか?

私としては「これはもう百聞は一見に如かずだ」と思い、この2つの奏法については実際にやってるところを見せていただくことにしました。どうぞ、ご覧くださいo(^-^)o

 

田尻さんによる「コル・レーニョ」と「スル・ポンティチェロ」の実演は→
                       (私が持ってるもう1つのHPに飛びます)

 

現代音楽の中ではこうした奏法は特に珍しいわけでもないようですが、この時代の弦楽四重奏曲にこういう奏法を取り入れたことは、すごく画期的だったみたいです。

それで余計に私はこの曲を、フランシス=ジャン=マルセル=プーランクなどと並んで、のちのクシシュトフ・ペンデレツキなどへ受け継いでいかれる「現代音楽」の先駆け的な音楽なのかと思ってたんですが、シリウスの解釈は「現代音楽」ではないようです。では、どういう解釈か…ってことになるんですが、ここはもう成田さんにお任せしたいと思います(^^ゞ

以下、成田さんによる「バルトークは現代曲か否か」考察です(^.^)b

 

バルトークは「現代曲」か否か・・・?実は結構難しい事柄ですよね。
作曲年は1927年。今から80余年も前の作品を「現代」の曲と呼ぶのでしょうか・・・勿論音楽史的には近代から現代への移行期に位置しています。

現代曲の一般的なイメージは、「12音技法の流れの無調音楽」、「変拍子や複雑なリズム」、「旋律が無い」、「とにかくワケがワカラン」等々・・・おそら今回のバルトークもそう言った感想を持たれる素質は充分だと思います。

しかし今やプレイヤーの世界ではバルトークの他、ストラヴィンスキーや武満徹も既にある意味で「古典」と言う様な位置付けがある様に見受けられます。「古典」と言ってもそれは決して「昔の物」とか「古いもの」と言う意味ではありません。もしかするとそれは、プレイヤーにも「現代音楽イコールワケわからん物」と言う悲しむべき固定観念が出来てしまっている事の裏返しから出て来た事かも知れません。つまり「演奏するのも解釈するのも確かに難しいけれど、なんだかワカるから所謂現代曲とは違う」。

最も簡単に質問に答えるとすれば以上の様な事だと思いますが、一寸横道にそれながら補足説明と僕個人が考える事を書きます。
 
そもそも「現代曲」とか「現代音楽」と言うのは何を指しているのでしょうか?
上記の「ワケわからん」等の様なイメージ、確かにそれらも一つの側面ではありますが、「現代」と言う言葉は普通は「今」とか「最近」の世の中の事を指しますよね。つまり2009年とその周辺数年が私達にとって「今」であり「現代」なワケです(辞書で「現代」と調べるともっときちんと年代の括りがありますが)。と言う事はエグザイルやAKB48も広義では「現代音楽」「現代曲」と言う事になります。ですから、旋律があって調性もあって「ワケわかる」曲でも「現代曲」だったりするのです。

そんなこんなを考えていると「現代音楽」という区分けが不思議な気がして来ます。
一寸違った視点から見ると、実はバッハもハイドンもそれぞれの時代に於いて「現代音楽」と言えるのです。
 
先に「悲しむべき固定観念」と書きましたが、何が「悲しむべき」かと言うと、バッハやハイドンが「現代」だった頃は今よりもう少し作曲家と演奏者と聴き手の間に共通の「音楽言語」が存在していて、それを共感・共有し合っていたと思われますが、今ではそう言った関係はかなり希薄になっている為に多くのプレイヤー並びに聴き手に固定観念が出来てしまっていることです。

とは言うものの、それも時代の変化による結果かもしれませんから、この先また様々な変化をして行くのだろうと思いますが。

以上、つらつらと書いてみましたが、あくまでも個人的見解ですので・・・
いくら書いても説明不足、言葉足らず、書き忘れている事が沢山ある気がして仕方がないので、これ位で許して下さいまし。

 

…だそうです♪

余談ですが、バルトークはこの作品を最初のアメリカへの演奏旅行に持っていき、その時に開かれていたフィラデルフィア音楽基金協会主催の作曲コンクールに出品して優勝しています。その優勝賞金3000ドルで、第1次世界大戦後のハンガリーの政治的混乱に巻き込まれたことよる経済的苦境から抜け出した…というエピソードもあるようです。


☆シューマン 弦楽四重奏曲 第3番 イ長調 op.41−3

ロベルト・シューマンは、1810年6月8日に出版業者の息子(5人兄弟の末っ子)として生まれます。家業が出版業者ということで幼いころから文学や音楽に親しみながら過ごしたせいか、ロマン派の中で最も文筆に優れた音楽家だったそうです。また、音楽は独学で、形式よりも思想や感情に重きを置いた作風が特徴のようです。

シューマンは母の勧めで法学を学ぶためにライプツィヒ大学に入学するものの、やはり音楽の道を諦めきれずにフリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りしてピアノの練習に励みます。でも、手を傷めてピアニストへの道を断念し、音楽評論家や作曲家として生計を立てることを決意します。その後、フリードリッヒ・ウィークの娘クララと恋に落ちて1837年に婚約しますが、名ピアニストとして有名だったクララに対して当時のシューマンはまだ無名でだったので、ウィークは2人の結婚に反対でした。たいへんに辛い恋だったといいます。そして、ついに2人は裁判を起こし、1840年に結婚します。

このころの幸せな気持ちをシューマンはたくさんの歌曲にしています。また、それまでピアノ曲ばかり書いていたシューマンは、結婚の翌年である1841年には第1交響曲「春」や室内楽曲なども発表し、どんどん作風の幅が広がっていきます。
で、今回の演奏会で取り上げられる「弦楽四重奏曲 第3番 イ長調 op.41−3」は1842年に作られたものなので、1844年ごろから幻覚に悩み、精神障害を患いはじめたシューマンにとっては、幸せをただ素直に幸せだと感じることのできた最後のころの貴重な1曲と言えるかもしれませんね。

 

…このシューマンの曲に関してはほんとに情報がなくて、私なりには精一杯がんばってまとめたつもりなんですが、これが限界です。で、もうダメだと思って成田さんに泣きついたら、またまた素敵なフォローをしてくださったので、どうぞ以下を読んでみてください(^.^)b

 

本当にこのシューマンのクァルテットについては資料が少ない様ですね。
作曲の経緯について少し補足をするとすれば、この時期にシューマンはハイドンとモーツァルト、そしてベートーヴェンのクァルテットを研究しており、その成果として書かれたと考えられます。

しかし、旋律や和声、或いはそれらを全てひっくるめた「作品の雰囲気」は結婚した年に書かれたシューマンの代名詞とも言える数多くの歌曲・・・「ミルテの花」や二つの「リーダークライス」 (Op.24と39)、「詩人の恋」等のそれと相通じるものが十二分に発揮されています。

まるで傍らに居る恋人に優しい目と声音をもって「ねぇ・・・」と話しかけるがごとくの冒頭部分の愛らしさは、実にシューマンらしい楽想だと思います。

結局個人的な印象を語ったに過ぎませんが、こんな感じです。

 

 

 


☆チケット☆

☆デザインは田尻さん、印刷はごんたさんご夫妻でした☆



 

 

 

第6回定期演奏会用のチラシです
(両方ともクリックすると大きくなります)


デザイン・構成は田尻さんがされたそうです♪

 

 

 

    

   まず最初に田尻さんに届き、必要に応じて他のメンバーに転送してくれます♪

 

 

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